●「死に場所」を失う日本人・・・

40を過ぎて独身の私には今もし何かあったとしても残念ながら死に水を取ってくれる人はおらず孤独死は決して他人事ではない。そして世界が経験したことのない“超々高齢社会”をこれから迎える日本では「死に場所」のない人が2030年に47万にのぼるという推計が出されている。

この47万人という数字は厚生労働省が発表した「死亡場所別・死亡者数の年次推移と将来推計」によるもので、医療機関、介護施設、自宅での死亡を除いた“その他”の数字だ。1970年代にはすでに自宅で亡くなった人数を病院で亡くなった人の数が上回り、さらに8割近くが病院で亡くなっている現状が20年以上続いている。

“住み慣れた地域や我が家で最期まで暮らせる社会”を目指そうと国は在宅を推奨しているが在宅死はわずか1割しかおらず、病院死と在宅死を逆転させるのは簡単なことではないことは明らかである。厚生労働省の言う通り病院でも施設でも自宅でも死ねない人は果たしてどこで最期を迎えればいいのか・・・。

●「チーム医療」に出逢えた奇跡

私が末期の子宮頸がんの母を在宅で看取ったのは今から18年前のこと。がんが見つかった時にはすでに手遅れで残念ながらもう手術をすることは出来なかった。実は母はがんになる10年ほど前に、くも膜下出血と脳梗塞を併発し、右半身麻痺と言語障害という重い後遺症を背負っていた。だから唯一自由に過ごせた我が家で最期を迎えさせたいと強く願ったのだった。

「治療法がなければホスピスへ」という時代になぜ在宅が可能だったのか。私達家族の想いを支えてくれたのは地元埼玉の病院に試験的に立ち上がっていた“緩和治療科”の先生達だった。今では緩和ケアという言葉は当たり前のように使われるようになったが、1990年代には緩和という概念はまだ普及もしていなかった。

そんな状況の中、この病院では外科、内科、精神科そして訪問看護がチームを組み、がん患者1人1人の希望に合わせて緩和ケアから積極的な治療まで様々な選択肢を支えるというまさに“チーム医療”に取り組んでいた。がん告知も進んでおらず患者自ら治療法を選択できるようになるのはもう少し後のこと。今から考えると奇跡としか言いようがない。私達家族と母は医師や訪問看護師に見守られ“その日”を迎える準備をすることになる。

●ナースコールのない状況に耐えられるか?

「本音を言えば最期は自宅がいい」と多くの人が願っている。がしかし具体的に“終末期”をイメージできている人がどれぐらいいるだろうか。終末期や在宅医療では実は医師にできることはわずかしかない。何故ならもう病気を治すことはできないからだ。真摯に在宅医療に向き合う医師はこのことを認めている。

そして在宅を選択するということはイコール延命治療をしないということである。母の場合は先生から「延命治療は必要ありませんね」と言われたわけではなく、自宅で看取ると決めた時に“家族だけ”で母の死を迎えるんだと自然と覚悟を決めていたのだった。当たり前のことだが家にはナースコールがない。容体が急変しても看護師も医師もすぐに駆けつけてくれるわけではない。

しかし長い間、看取りを病院や医師に委ね、おまかせ医療に慣れすぎてしまった日本人は先生にお願いすれば何とかしてくれるという神話を持ち続けている。在宅死が少ない要因は医療や介護体制の不備だけにあるのではない。在宅での看取りで一番重要な本人と家族の「覚悟」と「決断」ができていないからである。

苦しむ家族の姿を見て最後の最後に救急車を呼んでしてしまったら本末転倒だ。まず在宅を選択する前に家族みんなで考えて欲しい。「ナースコールがない状況に耐えられるか?」を。

自宅で母と私

●母の命がかかった大きな決断・・・

私達も在宅をすぐに決断できたわけではなく納得して選択できるまで、余命半年と言われ時間が限られている中ではあったが、先生と何度もそして何時間も話しあった。家族みんなが同じ考えとは限らない。「何かあったらどうするのか」と大きな不安を抱えていた父は母を家に連れて帰ることをためらい在宅に反対していた。

もちろん私も「死」を目の当たりにするのは人生で初めての経験で泣き出したいほどの不安に押しつぶされそうだった。しかし先生は一つ一つの選択肢を丁寧に説明してくれ時間をかけて決めればいいと言ってくれた。また後で知ったことだが先生は全ての家族に在宅を勧めていたわけではなく、本人や家族と対話を重ねる中で在宅は難しいと判断する場合もあったそうだ。

我が家の一番大きな決断は「人工肛門」の手術だった。がんが腸を巻き込むように大きくなっていたため排便がほとんどできず、寝たきりの状態でベッドの上で母は毎日うなっていた。このままだと腸閉塞を起こして死んでしまう可能性もあった。その時に先生が提示してくれた選択肢が人工肛門だった。

全身状態は決して万全ではない。半身麻痺のため片肺はつぶれていた。また末期がんの身体にメスをいれるのでがんを刺激してしまうということなどあらゆるリスクを聞いた上で手術に臨んだ。言語障害のため意思表示はできなかったが、自分の身に起きている全てのことをきちんと理解している母にももちろん納得してもらった中でのまさに命のかかった決断だった。

●最期まで役割を果たすことはできる・・・

手術は無事成功し最期の数か月は排便の苦しみから母は解放されることになった。勇気ある決断をしてくれた先生に本当に感謝している。すでに自力では立ち上がることができず寝たきりになり、オムツを使用し点滴や尿の管などが身体に装着されていたがどれも母には必要な処置であった。

「生きていて意味があるのか・・・」第三者から見るとこう思ってしまっても仕方がない状態だったかもしれないが、言語障害があり細かい心模様を伝えることが出来ない中で、全ての運命を静かに受け入れていた母は、常に“感謝だわ”と私達家族に語りかけてくれていた。

毎日来てくれる訪問看護師さんにも帰り際に枕元にある飴やガムを手渡して、母なりに感謝の気持ちを伝えている姿を目の当たりにして、人はどんな状況に置かれても最期まで役割を果たすことはできるということを教えてもらった。

信頼できる医師と訪問看護師の存在があったからこそ“その日”を私達家族は家族だけで迎えることができた。死後の処置をするために駆けつけてくれた訪問看護師さん達が玄関先で号泣してくれた姿は今でも忘れられない。こうして「覚悟と決断」の連続の日々が終わりを告げた。

●看取りに必要なのは場所ではなく「人」

大介護時代、多死社会、孤独死、800万人を超える認知症・・・などセンセーショナルな言葉や数字を私もついつい使ってしまうが、人間が老いて死ぬのは昔から当たり前のことなのである。死に場所が用意されても「覚悟」と「決断」が出来ていなければ穏やかに“その時”を迎えることはできない。

「患者が安楽死を望むのはなぜか?」それは在宅医療に取り組む人たちのケアが足りていないからだと、長年在宅ホスピスに取り組むある医師が言っていた。命の限りが分かった時に直面する身体的な苦痛、社会的な苦痛、精神的な苦痛、そしてスピリチュアルな痛み・・・。身体の痛みは治療で和らいだとしても、技術や知識では取り除けないのがスピリチュアルペインである。

「最期までどう生きるか」の答えを自分で見つけるためには、「死」と正面から向き合う必要がある。安楽死を望むのは「老い」「病」「死」から目を逸らす行為でしかない。目指すべきは最期まで尊厳ある生命を全うすること。そのためには自分が置かれた厳しい状況を受け入れ肯定しなければならない。

運命を受け入れることは簡単ではないからこそ、看取りに必要なのは場所ではなくて、不安や痛みに向き合う本人や家族の覚悟と決断を支え見守ってくれる医療や介護の人材なのである。そして私達一人ひとりが考えなければならないのは“どこで死ぬか?”ではなく“どうやって死を受け入れるか?”ではないだろうか。 

町 亞聖
フリーアナウンサー 元日本テレビアナウンサー、報道キャスター、厚生労働省担当記者としてがん医療、医療事故、難病などの医療問題や介護問題などを取材。2011年にフリーに転身。脳障害のため車椅子の生活を送っていた母と過ごした10年の日々、そして母と父をがんで亡くした経験をまとめた著書「十年介護」(小学館文庫)出版。医療と介護を生涯のテーマに取材、啓発活動を続ける。 ニッポン放送「ひだまりハウス~うつ病と認知症を語ろう」パーソナリティ(毎週日曜あさ6時25分からOA)公式ブログ:http://ameblo.jp/machi-asei/