11月初旬東北地方の地震被害地を訪れた。今まで何度も行こうと思いながらなかなか機会を見つけられないでいたが、今回仙台で学会があったので、車で宮城県内の津波の被災地をまわり、また行き帰りの途上福島県内では常磐高速を降り、帰還困難地域の国道を通り抜けた。
 仙台郊外名取市の閖上(ゆりあげ)地区、石巻市の門脇(かどのわき)地区、気仙沼市の仲町や魚市場前を訪れた。これらの海岸に直接面していた町々は、町そのものがいったん消えてしまっている。そして今復興建設の真っ最中であり、ちょっと見には大都市郊外の分譲地の建設現場と変わらない。トラックがひっきりなしに往来し、クレーンが至る所に立っている。


写真1 名取市閖上地区の日和山。頂上の神社の祠の上まで水が上ったという。

 分譲地と言えば、私自身が住んでいる茨城県の住宅地は、新駅開業に伴って20年前に売り出されたものだが、今ここを訪れる人の目には完成された街と映るだろう。私の子ども達には故郷の原風景でさえある。私の目に当初からの街として映る東京郊外の世田谷や杉並なども、二三世代前の人には田野から急に出現したころの殺伐とした風景が記憶に残っていたはずだ。今震災後7年経って、青森県から福島県までの太平洋海岸にあるのは、こうした都市の単純な生成の姿ではない。復興の工事が行われているとはいえ、すでに存在した街が消失した後の空間なのである。都市の消失の光景は、大空襲後の東京や原爆で破壊された広島など、日本では第二次大戦終了直後に見られたもので、われわれの親の世代はこれを経験しているが、われわれ自身の世代は写真でしか見たことがない。
 今回訪れた土地の中で、特に悲哀を感じたのは、学校管理下で戦後最多の児童死亡者数という70人以上が津波にのみ込まれた、石巻市大川小学校のある釜谷地区である。学校だけがぽつんと廃墟として残っているだけで、北上川沿いにあった古い市街など初めから存在しなかったかのような荒涼たる草地になっている。


写真2 大川小学校の現状。

 小学校の建物は、煉瓦壁の円形の中心棟と扇型の教室棟で構成され、それに囲まれた中庭には、かつて明るい光が溢れて子ども達が出て来て遊んでいたであろう光景が目に浮かんでくる。柱の頭部には美しい曲線が施され、全体に丸みを帯びた校舎の形は、活発な子どもの身体をイメージさせ、至る所にこの学校を建てた地域の人たちや建築家の子ども達への優しい思いが感じられる。設計者の北澤興一は、学校建築に当たっては「子どもがよろこぶ校舎を建てる」を心がけていたそうだ。
 それだけに一層悲しさが募る。建物外壁は湿って黒ずんでいて、その背後に子ども達が描いたらしい壁画が見え隠れしている。校庭の端のコンリート壁にも、世界の民族衣装を着た人々や宮沢賢治の童話イメージを描いた子ども達のペンキ絵が描かれ、寒々とした空間の中で奇妙な明るさをつくり出している。
 地震の直後は下校の時間帯に当たり、何人かの父兄は次々と車で迎えに来ていたそうだ。助かったのはこうして自宅に帰り、両親とともに避難した子ども達だったという。全校児童108人のうち、残った80人近い子ども達は、先生の指示で校庭に集められ、避難の誘導を待っていた。やがて先生に率いられた子ども達は、北上川に掛かる橋のたもとの高台へと移動を開始した。ゴールは建物がなくなってしまった今の現場に立って見るとすぐ目と鼻の先である。地図で確認すれば、ちょうど学校の敷地と同じ広さを横切ることになるのだが、当時は市街地で、狭い路地を通って先生に率いられた子ども達の隊列が進んでいたらしい。そのとき、堤防を越えた濁流が襲いかかり、全員が命を失ったという。ただ溺れただけではなく、倒壊した建物や流木に押しつぶされた子どももいただろう。北上川の下流から押し上げてきた津波の水流が橋で塞がれ(流木などが橋に掛かってダムのようになっていたらしい)そこから堤防下の集落に水がなだれ込んだのである。


写真3 上:学校脇の県道。かつてはこの両側が市街地だった。下:校門前の掲示板に貼り出されているかつての釜谷地区の航空写真と、大川小学校の鼓笛隊。

 先生のこのときの避難場所の選択が妥当であったかをめぐって裁判が起こっている。私にはことの是非を判断することはできない。しかし80人近くの子ども達の命が失われた以上、裁判結果がどうであれ、当事者の責任は重いというしかない。何よりも、公的な立場の人間に対する責任追及で、当事者が組織防衛のために硬直した発言を強いられるのは哀れだ。私も国立大学で日頃官僚組織がどのような振る舞いをするかを見てきた。
 学校は子ども達のための施設であると同時に、地域の中心でもある。そこには何世代にも渡る人々の人生の記憶が集積している。被災前の大川小学校の校門を写した写真がある。円形校舎の煉瓦壁に穏やかな日差しが降り注ぎ、前庭には先生や来校者の車が駐まっている。私自身が息子や娘が通った小学校で、もう何年も前に見たのと同じ風景である。
 校門の前の慰霊碑の横に貼られた震災前の写真をみると、釜谷地区の町の風景は、ごく普通の日本の田舎町である。その町の中を歩く大川小学校の登校途上や鼓笛隊の子ども達の姿も、私自身の息子や娘の小学生時代と変わらない。こうした写真を見ると、かぎりない親しみと温かい感情が胸にこみ上げてくる。それだけに目の前の光景の悲愴感はやりきれない。


写真4 石巻市門脇地区。一区画だけ住居の壁を取り払った内部(トイレの便器まで)が残されている。すべてが取り払われた空虚さの中で、かつてここに人間の生活があったことを訴えかけている。

 災害が起こらなくとも、死んでいく人はいつも身近にいる。何気ない町の景色の中にも「死」が隠されている。だが「今」を見る者は、生き残った人間だけである。このことに普段は気がつかない。大川小学校のような災害の跡地に立つと、私がここでこの景色を見ているということが、不思議なことのように思えてくる。私も震災に無関係なのではなく、生き残った人間の一人なのだ、ということに気づかされる。おそらく先の大戦で戦場から帰還した人たちも、同じような思いを抱いていたことだろう。

武井隆道
1953年5月31日 長野県生まれ。
1960年より長野県小諸市にて少年時代を過ごす。
長野県立上田高等学校卒業
東京大学文学部、同大学院でドイツ文学を学ぶ。
1987年より筑波大学でドイツ語、ドイツ文学、ヨーロッパ文化等の講義を担当。
研究領域:ゲーテを中心とする18世紀末および19世紀初頭のドイツ文化
最近の研究テーマ:バレエの歴史と宮廷人ゲーテ、18世紀の身体美意識とゲーテ、ゲーテ時代のサロンの瞬間芸(タブロー・ヴィヴァン、アチチュード)