難病を患う英国の赤ちゃんの延命治療を巡って両親と病院が争い、世界的に注目された裁判が7月24日、病院の勧める延命治療の停止と「尊厳ある死」を両親が受け入れることを表明して終わりました。赤ちゃんはその4日後に息を引き取りました。治癒の見込みがなく生命維持装置がなければ生きられない赤ちゃんにとって何が“最善(best interests)”なのかーを巡り争われたこの裁判は、遠い日本に住む私たちにも「子供の治療の最終決定は、誰が行うのか」という難しい問いを投げかけました。

この赤ちゃんの名前はチャーリー・ガードちゃん。ロンドン在住の30代の両親のもと昨年8月に生まれました。生まれたときは健康的な体重で自発呼吸もしていましたが、体調が徐々に悪化し、同10月ロンドン市内の英国最大の小児病院「グレート・オーモンド・ストリート病院(Great Ormond Street Hospital)」に入院。同病院の資料によりますと、筋肉の衰えが進行する、極めて稀な先天性の難病「ミトコンドリアDNA枯渇症候群」」と診断されました。脳と筋肉、呼吸する機能が大きく損傷しており、生まれつき耳が聞こえず、手足を動かすことが出来ず、人工呼吸器なしでは呼吸が出来ませんでした。

 

“尊厳ある死を”病院側が親に提案

病院は今年2月、両親に対してチャーリーちゃんの人工呼吸器を外し、「平穏で尊厳のある死」を認めてあげるべきだと提案しました。両親は受け入れず、米国での治療を希望しました。そのため、病院が高等法院(High Court of Justice)に延命治療停止の決定を求める申し立てをしたのです。

子供の治療法を巡って病院と両親が裁判で争うことは、日本人にとってあまり馴染みがありません。が、英米法が専門の一橋大学法科大学院のジョン・ミドルトン教授は、「イギリスでは患者が子供の場合、親と医師が治療について意見が対立したとき、裁判所が間に立って決定を下すことは少なくありません」と言います。

ミドルトン教授が典型的な例として挙げたのが、宗教の関係で親が子供の輸血を断った場合です。「こうしたケースでは医師や病院が裁判所に許可を求めます。一番の理由はもちろん患者の命を救うことですが、後に両親が不法行為を理由に損害賠償を求める訴訟を提起することを避ける理由もあります」。

病院と両親が子供の治療法について法廷で争うことが珍しくない英国で今回この裁判が注目を浴びたのは、病院側が両親の望む延命治療に反対するという珍しいケースだったからです。

病院が高等法院に判断を仰いだのは以下の4つです。

  1. チャーリーちゃんは、自らの治療法について決める能力がない。
  2. 人工呼吸器を外すことはチャーリーちゃんにとって最善であり、合法である。
  3. 緩和ケアのみを行うことはチャーリーちゃんにとって最善であり、合法である。
  4. ヌクリオシド療法を行わないことはチャーリーちゃんにとって最善であり、合法である。

ヌクリオシド療法は、両親が米国の病院にチャーリーちゃんを転院させて受けさせることを希望していた実験的な治療法です。

 

“何が最善か”が争点に

裁判の争点は、チャーリーちゃんにとって「何が最善か」でした。

まず、判決文の中でニコラス・フランシス判事は「私にはチャーリーにとって何が最善かを決める義務がある」とし、「親は子供を育てる責任があるが、子供にとって何が最善かについては、独立した客観的な司法判断が優先する」と明確にしました。

チャーリーちゃんの病状については、専門医6人の診断について説明。いずれも「人工呼吸器により生かされている状態」「治癒の見込みはない」という厳しい診断でした。

両親の立場については、チャーリーちゃんの「生活の質(Quality of life)」について両親は「引き延ばす価値はない」と認めたと言及。しかし、両親は「私たちは、今の彼の生活の質について闘っているのではない」とし、チャーリーちゃんにヌクリオシド療法を受けるチャンスが与えられるべきだと主張したとしました。

チャーリーちゃんの両親に治療の受け入れを表明している米国医師に対しては、「病状が改善するという科学的根拠を示していない」と厳しく指摘。チャーリーちゃんにはヌクリオシド療法は「有効ではない」という判断をしました。

高等法院は4月11日、チャーリーちゃんにとって最善なのは、「苦痛を長引かせることではなく、平穏に過ごさせることだ」として病院側の判断を全面的に支持する決定を下しました。

両親は高等法院の決定を不服として、控訴院に上訴しました。控訴院では両親の訴えを棄却。次に両親は最高裁判所に上訴。最高裁も棄却。次に両親は欧州人権裁判所(European Court of Human Rights)に英高等法院の判決を差し止める申し立てを行いました。が、欧州人権裁判所は事案に介入しない決定を下しました。

米国での実験的な治療に一縷(いちる)の望みを託す両親の切実な闘いは多くの共感を呼びました。両親を支援する35万人以上の署名が集まり、治療の費用を賄うための募金は約130万ポンド(1億9000万円)になりました。そして、7月に入り、フランシスコ・ローマ法王やトランプ米大統領も支援を表明し、世界的に注目される法廷闘争となったのです。

 

専門家も意見が対立

英米の新聞やインターネット上のニュースサイトには、様々な意見が載せられました。医療倫理の専門家の間でも、「チャーリーは、尊厳ある死を認められるべきだ」という意見と、米国での実験的な治療という「チャンスにかけても良い」という意見に分かれました。英国は「安楽死」(助かる見込みのない病人を、本人の希望に従って、苦痛の少ない方法で人為的に死なせること)が認められていない国。その国で、両親の希望に反して延命治療を止めるという前例を作ることは、「安楽死」を合法化する流れにつながるのではないか、という飛躍した主張もありました。

米国での実験的治療に期待が集まる中、チャーリーちゃんの受け入れを表明していた米国の医師が7月中旬病院を訪れて診察。検査によりチャーリーちゃんの筋力が回復不可能なほど低下していることが判明したことから、「手遅れ」と判断しました。両親はその結果を受け入れる苦渋の決断をし、BBCによりますと24日裁判所前での会見で「多くの時間が無駄に使われてしまった」と述べ、チャーリーちゃんに対して「あなたを救えなかったことを申し訳なく思う」と語ったといいます。

 

日本の終末期医療

日本でも治癒の見込みがない終末期の患者の延命治療をどうするか、については医療現場で大きな課題となってきました。
終末期医療に関しては、厚生労働省が2007年に策定した「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」があります。それによりますと、終末期医療は患者本人による決定を基本とし、患者の意思が確認できない場合で家族が患者の意思を推定できる場合はそれを尊重し、推定できない場合は「患者にとって何が最善であるかについて」医療従事者と家族が十分に話し合い、「患者にとっての最善の治療方針をとることを基本とする」となっています。もし、合意が得られなければ、複数の専門家からなる委員会を別途設置し、治療方針などについて検討及び助言を行うことが必要―としています。

しかし、ガイドラインが示されていても、法的な枠組みが整っていないために、医療現場では延命治療の中止などについては慎重にならざるを得ない現状にあります。この現状を踏まえて、超党派議員により、終末期の患者の延命治療の中止などを一定の条件で認める法案が検討されていますが、まだ国会に提出されていません。

この小さく可愛らしいチャーリーちゃんが私たちに問いかけたのは、「あなたの国では、僕はどう扱われますか?」ということだったと思います。親が医師が法律家が、おのおのの立場でこのチャーリーちゃんの事案を考え、私たちの国の終末期医療の在り方について議論を深めていくべきではないでしょうか。


写真:ロンドンの裁判所の前に集まった、チャーリー・ガードちゃんの支援者たち=7月24日、EPA時事

村上 睦美
医療ジャーナリスト。札幌市生まれ、ウエスタンミシガン大卒。1992年、北海道新聞社入社。室蘭報道部、本社生活部などを経て、2001年東京支社社会部。厚生労働省を担当し、医療・社会保障問題を取材する。2004年、がん治療と出産・育児の両立のため退社。再々発したがんや2つの血液の難病を克服し、現在はフリーランスで医療問題を中心に取材・執筆している。著書に「がんと生き、母になる 死産を受け止めて」(まりん書房)