19世紀フランスの作家バルザックに、「役人の生理学」という作品がある。
「生きるために俸給を必要とし、自分の職場を離れる自由を持たず、文書作り以外に何の能力も持たない人間」
これがバルザックによる「役人」の定義である。「役人」、つまり「官僚」にとって「文書」とは、存在そのものである。
学校法人「森友学園」の国有地払い下げ問題や、加計学園獣医学科新設問題は、「役人」が、自ら作成した文書を、いかに都合よく利用し、隠ぺいし、そして破棄するか、白日の下に晒してくれた。

7月10付けの朝日新聞によると、国の重要な政策に関する公文書が、1年未満で次々に廃棄されているという。
公文書管理法は「意思決定の過程を検証できるように文書を作成する」と求めているが、最低保存期間は重要度に応じて、1年から30年まで、5つに分類して最低保存期間を設けている。どの分類にするかは、各省庁の判断である。
問題は「1年未満」の規定を盾に、重要な文書が次々と廃棄されている点だ。「意思決定の過程を検証」どころか、意思決定のプロセスを、次々と隠ぺいするための規定となりかねない。文書を作成した直後に破棄しても、「1年未満」である。これでは後世の歴史家さえ、事実を検証することができない。

「森友学園」問題で財務省は、交渉記録や面会記録を「破棄した」として公開に応じなかった。重要な記録を、支払い前に「破棄」することがありうるだろうか?
民間会社でさえ、絶対にあり得ない。まして「役人」は訴訟を極度に恐れる。訴訟に備えて「文書」を保存することが習い性になっているのである。
真摯に調べる意思があれば、削除したデータを復元することもできただろう。しかし財務省はシステムのリニューアルをいいことに、「事実」を永遠に葬ってしまった。

なぜ役人は自らの存在意義そのものである「文書」を葬るのか?
それは文書に事実が記載されており、その事実が明るみに出ると自分に都合が悪いからである。不正はこうして葬られる。
加計学園問題にはさらにあきれる。「総理のご意向である」と、内閣府が文科省に獣医学部の認可を迫ったとされる「文書」が明るみに出た。これに対して菅義偉官房長官は、「怪文書みたいな文書」と評した。
一国のスポークスマンが評する「怪文書」の意味は重い。
反骨のジャーナリスト六角弘(故人)に「怪文書の研究」という著作がある。「怪文書」には、往々にして事実が記されており、菅の「怪文書」発言は逆に文書の信憑性を高めた。

当の文科省は「共有フォルダーや職員へのヒアリングをしたが、行政文書として確認できなかった」と語った。
「確認できない」という使い古された言い草が、まことに「役人」らしい。
文科省事務方トップだった前川善平前事務次官は「文書は確かに示された」と証言した。さらに「文書」が課長クラスから若手職員にまで共有されていることが明らかになったが、それでも文科省は「文書」が「出所不明」と強弁している。

さらに南スーダン国連平和維持活動部隊の「日報」について、陸上自衛隊は当初、「破棄した」と答えておきながら、後に「保管」していたことが明らかになった。当たり前である。「日報」を破棄していたら、任務を継続することはできない。
稲田朋美防衛相は辞任を余儀なくされたが、それでも「隠ぺいはない」と言い張った。

バルザックの言うように役人は「俸給」を必要とする。その俸給は我々の税金だ。役人が作る「書類」や「文書」は、間違いなく国民の共有財産である。役人が都合よく隠し、そして廃棄してはならず、原則として保存し、一定期間後には公開されるべきである。「情報公開」こそ民主主義の根幹である。

それにしても「役人」は誰のために仕事をするのか。「俸給」にありつくため、国民の利益を犠牲にしても組織の利益を優先し、政治権力に奉仕する。一連の「事件」が示したのは、権力というものの闇の深さと、権力におもねる「役人」の悲しい姿である。

憲法15条には何と書いてあるか。
「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」
文科省、財務省、防衛省から、果ては警察、検察まで、すべての公務員が安倍政権の「奉仕者」となるとき、日本の民主主義は終わりを告げるだろう。