分岐点を超えた北朝鮮

 2018年の9月9日が過ぎた。結局、北朝鮮は建国から70年を超えてしまった。ソ連でさえ69年でしかなかった。何度も言うがナポレオン以降の近代から現代の歴史の中で全体主義国家が70年のラインを越えたのは北朝鮮が初めてとなる。しかも、この国は現在崩壊の兆しもない。

 なぜ国際社会はここに来るまで北朝鮮を止めることができなかったのか。直前にもチャンスはなかったのか。しかしこの数年の世界は、逆に北朝鮮の思惑にずるずると引き込まれて抜け出させない状況に陥っていたというのが現実だった。この結果が出た以上、今更後悔しても始まらない。北朝鮮は70年のラインを越えてしまったのである。

 これから北朝鮮はしばらくの準備期間を経て本格的に国際社会に自信をもってチャレンジしてくることになる。核を放棄する?北朝鮮の国際約束は言葉でしかない。世界は核ミサイルの開発期間の為の時間稼ぎに薄々気が付きながらも、成り行きに任せて北朝鮮の思惑にお付き合いするするしかないようである。近い将来こんなはずではなかったという事態に世界は直面することになるだろう。  

 恐らく、このような見方に同意できない方も多いに違いない。北朝鮮はアメリカを中心とする圧迫に耐えきれず自ら白旗を上げ対話路線に転換してきたじゃないか!これを北朝鮮が意図的に狙ったものだとでもいうのかと・・・。

 だからこそ今、この時点において書き留めておきたい、北朝鮮は70年以前と70年以後では異なる存在になるということを。この間にはその存在の意味を分ける明確なラインがあり、北朝鮮はその試練を乗り越えたのである。 


金日成広場に隣接する朝鮮労働党本部

国際関係論・国際政治学で北朝鮮は捉えられない

 70年を超えても北朝鮮はいまだ日本において不可解な存在であり続けている。さっきまで核・ミサイルの開発を進めていたかと思うと突然の対話路線への変更。北朝鮮はどういう原理で動いているのか、それがつかめないのだ。

 これまで日本の北朝鮮理解を牽引してきた国際関係論や国際政治学の分析の枠組みで北朝鮮の実態であり行動の原理をつかむことには限界がある。なぜか?それは、北朝鮮という国が国民の生活を犠牲にしてかろうじて生きているような貧しい国であっても、国家体としては全体主義として国際社会の枠組みの中で生きてはいないからである。

 もちろん北朝鮮問題に関しこれまでの専門的分析手法が全く機能しなかったわけではない。ただそれは、我々の世界に対して北朝鮮がどれだけの脅威レベルにあるかということを理解することを目的とした場合であり、それに関しては効果的に判断されている。

 またもう一点は北朝鮮を変数Xとした場合、この北朝鮮の存在とその行動により、国際関係の内部、特に東アジアを中心とした米国・中国・ロシア・日本・韓国の相関関係がどう変わるかという分析においてもまた意味があるといえる。

 しかし、それは変数とされる北朝鮮の社会構造自体であるXの値についてであり、さらにはその持続性を判断するための分析手法でない。にもかかわらず、単に北朝鮮繋がりからこの分析手法によって導き出された結果「北朝鮮の体制は粛清を乱発するほど混乱しており、経済の悪化から近く崩壊する」というような、外の基準から見たままの認識を結論にしてきたところに大きな問題があった。

 それを許してきた背景として、北朝鮮はその閉鎖性から世界で唯一地域研究において人類学的な現地での社会調査の空白地帯となっており、誰もそのような形で導き出された結論に対し検証ができなかったということがある。

北朝鮮とは時代錯誤の国家

 あらためて、なぜ北朝鮮は我々の世界とは異なる世界にいるといえるのかを考えてみる。仮に、国際社会を一つの枠組みととらえると上部構造である政治体の連動性は、その下部構造である国際経済の相互依存のメカニズムとその維持の重要性により相対的に全体を構成している。つまり、経済的な繋がりである自由な国際市場へのアクセス(貿易)がそれぞれの存在の生命線だということである。

 しかし北朝鮮はこの枠組みの下部構造である国際市場に自らの経済を依存させてはいない。国際社会との経済的つながりは援助や地下資源を格安で引き渡す(北朝鮮的には搾取的商売)であり、何か付加価値のある商品を市場に出しそこで利益を上げているわけではないのである。それどころか、北朝鮮は鎖国政策が国の方針となっているのだ。社会を維持するための経済の質が違うのである。それは、常に新しいイノベーションにより社会問題を解決し国家を維持するのではなく、生きることを最大目的化された前近代的な自給自足による循環経済の構造を北朝鮮は国家レベルで成立させているのである。  

 このような経済が可能なのは、北朝鮮では中央(平壌)と地方(平壌以外)に住む人間が区別されており、確かな血筋で選ばれた中央に住む人間だけが優遇を受けていることにある。つまり、政治的に人間を選別した身分制の前近代的な封建社会(不作の時は地方で餓死者が出ることをあらかじめ組み込んだ社会)が基本にあり、それを国家として機能させているところに、この国家が全体主義を維持できている理由がある。
 仮に金正恩が核を完全に放棄したとしても、この現代的な価値観を無視した人権問題を抱えている限り、北朝鮮がそのまま国際社会の枠組みに入るということは構造的にない。

 我々と北朝鮮に間にあるものは、今の時代の南北問題に象徴される貧富の差という横の「地域ギャップ」というより、現代と封建時代の差といったフランスの市民革命を挟んだ時代錯誤的な縦の関係で起こる「時代ギャップ」なのである。

 ただ、こんな国も突然変異で生まれてきたわけではない。第2次大戦以後、70年という時間をかけこの形に醸成され、今も存続しているわけである。経済レベルは小さくとも人口は2500万人でオーストラリアと同規模の国家であることは忘れてはならない。

ロケット型国家に国際秩序は通じない

 北朝鮮のような全体主義国家を機能という観点から見た場合、民族主義をその推進力として国家を一つの人格に統合し、自らが設定する目的に向かって爆進するロケット型の国家だといえる。国民主義の国家のような社会的安定を維持(保障)する為の制度と経済を掛け合わせた高度なホバーリング技術とは違い、このような国の場合、単純で力強い全体を構成するパーツとして国民がある。

 現代における主権国家であるという自らの有利性(他国から内政干渉されない)を最大限に生かし、現在の北朝鮮は自らが設定した当面の目的(米国本土に届く核・ミサイルシステムの確立)に向かって国家を全体として動かしている。彼らにとって横にある国際社会の枠組みは、どこまでも自らの目的を達成するために利用すべき対象ということである。  

 ここで言いたいことは、日本など国際社会の中で生きていくうえでこの上なく重視している国際的な信用としての国際公約の順守は北朝鮮的には意味がないということ。
 例えば同じ朝鮮民族である韓国が、日本に対し国際的な約束を簡単に破ることに対し、国際的信用という圧力でその約束の効力をかろうじてだが維持さすことができるのは、韓国もまた国際的な相互依存の関係にその存在を依存している立場であり、国際的な約束の反故は一つ間違えば、国際秩序の中での立場を失う可能性が大きいというメカニズムにその拘束力が働いているからである。

 第2次大戦後の現代の環境で生きてきた国際感覚として、冷戦時代から国際公約はただそれだけで重い意味を持ってきた。政治的孤立は国際経済からの締め出しを意味しているからだ。我々は北朝鮮の国際約束もまたその文脈でとらえているが、構造的に北朝鮮は開かれた現代以前の閉ざされた全体主義国家であり、現代的な枠組みにいない以上、現代の国際的公約の拘束メカニズムは働かないのである。

 狡猾な北朝鮮はこちら側の枠組みにいる恩恵を受けるうえでの「しがらみ」の作用を客観的に読んでいる。だからこそ、あたかも自分たちも同じ枠組みの存在を装いながら国際約束という約束手形をもったいぶりつつも発行し、将来への伏線として、今、国際社会を揺さぶっているのである。

 彼らは建国70周年を迎えた現在、このように効果的な戦略を通して状況の維持をはかっているが、数年後、現在進行している核とミサイルの開発にめどがつけば、いとも簡単に国際的な約束など反故にする。なぜならそちらの方が北朝鮮にとってのメリットが高いからだ。

 当然、そこには我々枠の中にある倫理観である裏切り的な罪の意識はみじんもない。我々が潜在的に抱える国際社会に対しての「しがらみ」を彼らは全く抱えてはいないのである。
つまりそれは、枠外にいることで受ける経済的な圧倒的不自由さと引き換えに、北朝鮮は自分の国益だけに従って行動する自由を持っているということを意味している。

 我々は現在、我々の枠組みの中でしか機能しないメカニズムで、外の世界に住む北朝鮮を束縛することに期待している状態にある。

北朝鮮が核・ミサイルのシステムを確立した意味

 これまで述べてきたように、もし北朝鮮が21世紀の文明体系である現代国際秩序の枠組みに唯一入っていない存在であるという分析が正しければ、それは、北朝鮮というたった一つの国家が独立体系として一つの枠組みになっているということを意味する。

 簡単に言うと北朝鮮と日本というような国と国との相対関係ではなく、全体主義の制度と国際社会の制度という枠組みの相対関係である。もちろん規模という観点からは比較にならないほどの差があり、考えるにも値しないことであった。確かにこれまではそうであった。だからこそ、これまで北朝鮮は米国の大統領が乗り出すまでもないような、東アジアの片隅の異端として扱われてきたのである。
 
 しかし問題は、たとえ小さい規模の国でしかなくとも、一つの枠組みである北朝鮮が核・ミサイルの技術を一定程度までに確立してしまったことである。
 
 同じ後進国であるインドやパキスタンなど国際秩序の枠組みの内にある国が持つ核と、北朝鮮の核では意味が違う。もし同じ枠内での話であれば、その内部の一つの国としての対立相手は全体である地球という構図にはならない。自分の命と引き換えに、地球の命というような大それた発想に至るようなことはまずありえない。
 インドならパキスタン、パキスタンなインドが想定される核の相手であった。しかもそれらは使用されてはいない。つまり核は保有しているがインドもパキスタンも国際秩序による制御バランスのメカニズムが働いているのである。  
 
 北朝鮮の場合はそれとは根本的に異なる。北朝鮮の相手は自らを除く国際社会すべてである。北朝鮮的に言えば、自らの命と世界全部の命は同等の価値があるということになる。北朝鮮が自らの死を覚悟した時は、世界を道ずれにすることを全くいとわないということである。もちろん現在の北朝鮮は自ら死ぬことを望んでいないからそういう究極的な判断を強いる状態には陥ってはいない。

 ただ、現実的な話として、現在の北朝鮮は米国本土にまでは届かなくても、少なくとも世界経済の一極にまでなった北京を完ぺきに核ミサイルの射程圏内として押さえているのだ。北京に核が落ちれば中国共産党は持たない。中国経済が一瞬にして崩壊すれば、それはもはや東京の比でない。米国を中心とする世界経済も道ずれに崩壊してゆくことになる。

 核はその物理的な破壊力以上に、1発でもその扱い方次第で“ネットワークで働く”世界経済に対して決定的な打撃を与えることができるのである。

 北朝鮮の防衛技術は急速に発展するモードに入っており、現状からももはや無視できる段階ではなくなってきたということである。この状況が、金正恩時代に入り北朝鮮は一気に国際社会に相対する存在としてのプレゼンスの価値を引き上げている要因となっている。  

 なぜ米国の大統領が世界の注目の中で、北朝鮮ごとき異端国家の指導者と会うことになってしまったのかがすべてを物語っている。

 そして、ここで本質的に厄介なのは北朝鮮自身がなぜこのようになったかの全体構造を仕組みとして自覚しているということである。我々は、その全体像さえ全く把握できていないにもかかわらずである。 

建国70年を超えた金正恩の時代  

 ここまで北朝鮮の命としてきたが、それをもっと厳密に言うとそれは国家そのものではなく、金正恩という一人の人物を意味している。つまり、北朝鮮的には金正恩と全世界が同等な価値であるということである。

 一見荒唐無稽の話にも聞こえるが、現在、この30歳そこそこの若者がどう考えるかで東アジアのバランスが動くような状況になりつつある。この人物一人により、米国・中国という国際秩序を2分する大国が互いにけん制しあいながらも東アジアの渦に巻き込まれるという未曽有迂の状況が生まれ始めているのである。

 北朝鮮は現在、自らの体質変化(社会的世代交代)を完了さし、これまで試行錯誤の中で模索してきた金日成主義という民族国家の体制の在り方にたどり着いた。この建国70周年とは区切りとして、3代目就任からの一連の儀式の最後を飾る、新体制成立の世界へのお披露目という総仕上げの意味を持っていたのである。北朝鮮はここから国内の儀式のとらわれることなく、自らの目的を段階的に本格化してくるフェーズに入ってくることになる

 こういう本質的な変化がある中、現状で日本が北朝鮮に対して影響を与えられる範囲は相当に限られている。残されている選択肢は、その理解の上で北朝鮮の実態をできるだけ正しく認識しその行動パターンを読みながら、それをテコに、再構成が進む東アジアの中で日本にとって相対優位な位置を探ってゆくことぐらいしかない。 

 北朝鮮は70年という一つの試練であり大きな目的を超えた今、かなりの自信を得た状態にある。日本には現実に即した新たな思考が求められている。