アフリカン・アートに世界の関心が集まったのは、パリに「ケ・ブランリ美術館」の建設が構想された1990年代のことである。アフリカ各地から古代彫刻を中心とした作品が続々と集まり、パリの蚤の市でさえ、とてつもない値段が付いていたことを覚えている。「プリミティブ・アート(原始美術)」とひとくくりにすることはできないが、ストラビンスキーの「春の祭典」を否応なく思い起こさせる。西欧世界の常識を逸脱するほどデフォルメされた人間、動物、自然、精霊を刻んだ彫刻に、何とも言えぬ斬新さを感じたものである。アフリカン・アートに最も影響を受けた芸術家がパブロ・ピカソであることは、美術史のどの教科書にも記載されている。
 日本でも山梨県北杜市のアフリカンアートミュージアムが1800点の作品を収蔵するほか、中部大学民俗資料博物館には、ユネスコ事務局長を務めた外交官松浦晃一郎のコレクションが展示されている。
 タンザニアの偉大な画家、ジョージ・リランガを知ったのは畏友根本利通の著書、「タンザニアに生きる」を通じてである。根本は私の高校の同級生で、京都大学文学部史学科を卒業後、1984年からタンザニアに住み始めた。「タンザニアに生きる」の各章の扉には、ジョージ・リランガの絵があしらわれている。
 ジョージは初め彫刻を生業としていたが、ティンガティンガ派のサークルで学ぶ中で、1972年、画家として生きることを決意した。1974年にはダルエスサラーム国立美術館に作品が収蔵され、ニエレレ大統領を動かしてニュンバヤサナー「芸術の家」を創設した米国人宣教師のシスター・ジーン(Sister Jean Pruitt1939-2017)に才能を見出された。1977年以降、ニューヨークやワシントンにも出かけるようになり、日本にも招聘された。根本はジョージについて次のように書いている。
 「日本から帰ってきたばかりの時は羽振りがよく、我が家に750ccのバイクで突然やってきて、新作を売りつけて帰っていったりした。私もささやかに売り込もうとして、知り合いの日本人の美術家に、リランガの作品を託したりした。しかし、本人が名声に頓着しないというか、展覧会への出品などにさほど興味を示さなかったので、いつのまにやら立ち消えになっていた。」
 晩年は糖尿病で両足を切断し、車いす生活となり2005年に亡くなった。
 ヘンドリック・リランガ(1974~)はジョージ・リランガ(1934-2005)の孫で今年44歳、祖父の後を継いで画家となった。いわばリランガ様式の継承者のひとりである。今年5月に東京・高円寺で開かれた展覧会に足を運んでみると、想像通り、原色がキャンバスから溢れそうなアフリカン・アートの楽しい世界が広がっていた。
 リランガ展は今年5月の東京を皮切りに、日本各地で巡回展が開かれたが、そこに根本の姿はなかった。ヘンドリック・リランガの日本での展覧会実現に心血を注いできた根本は、直前に急死してしまったのである。なんと無念なことであったろう。
 ジョージ・リランガに比べ、ヘンドリック・リランガの絵は洗練されて西洋的でさえある。同じ「セタニ(精霊)」を描いてもジョージのそれは野性的で、絵の向こうから叫び声が聞こえて来そうである。ヘンドリックの作品は、構成が穏やかで、色彩は調和を旨とし、輪郭を描く線はふくよかで、抵抗なく心に収まる。根本は著書でジョージの絵と比べて「愛嬌が足りない」と書いているが、タンザニアの時代の流れを反映しているのであろう。


写真1 太陽の神様が見ている(縦・横100センチ)

 展覧会場の中心を飾ったのは、「太陽の神様が見ている」だ。「原始美術」の最大のモチーフである「太陽」だが、ヘンドリックの「神様」はどこか滑稽である。真四角のキャンバスに、口を開き、目は右と左が大きく離れ、複雑な表情をした「太陽」の「神様」が描かれている。周囲には多様なセタニ(精霊)と人々が無数の模様とともに埋め込まれており、寸分の隙間なく原色に近いエナメルで塗られている。この絵は同級生で医師の三島徳辰が購入したが、故あって建築家桑山正の手を経て、我が家の書斎に鎮座している。

タンザニアという国と芸術

 タンザニアはタンガニーカ共和国とザンジバルが1964年に合邦してできた東アフリカの国だ。北東部にアフリカ最高峰のキリマンジャロを仰ぎ、最北にアフリカ随一のビクトリア湖を擁する。首都のダルエスサラームはインド洋を望み、かつてインドや中東とアフリカをつなぐ中継地として栄えた。奴隷貿易も盛んだったという。ケニア、ルワンダ、ブルンジ、ザンビア、マラウィ、モザンビークと国境接し、タンガニーカ湖の対岸にはコンゴ共和国がある。根本の著書によると、ニエレレ大統領による独自の社会主義建設「ウジャマー」の伝統を継ぎ、大きな部族対立がなく、比較的民主的な体制が維持されているという。
 タンザニアのアートとしては、南部のマコンデ人が作る「シェタニ」をモチーフにした黒檀の彫刻がよく知られている。「マコンデ彫刻」と呼ばれ、三重県伊勢市の「マコンデ美術館」が多数収蔵している。また1960年代末にはサバンナの動物や自然を色鮮やかに描いたエドワード・サイード・ティンガティンガ(1937-1972)のポップアートが人気を博し、ティンガティンガ派と呼ばれる弟子たちによって、作品が作られ続けている。

ヘンドリック・リランガのアート作品

 ヘンドリック・リランガの画題はいずれも明るく楽しい。作品のタイトルを見ているだけで気持ちが和む。
 「笑いながらおしゃべり、友だちだからさ!」「夫が早く帰宅したのでうれしいよ。なぜって不安でいっぱいだったのさ」「驚くなかれ!?昔っから僕の舌は鼻まで届くのさ」「前はよく見えなかったんだけど、眼鏡を手に入れたら、見えるようになって大喜びさ」
 私が購入した作品のタイトルは「酔っぱらって歌を歌うよ」だ。赤、青、黒の3色で描かれたペン画で、酒壺をもって踊りながら歌う家族が何とも言えぬ雰囲気を醸し出す。聞けばタンザニアでは33の民族がそれぞれ独特の酒を造って飲むという。キリマンジャロ酒、バナナ酒、蜂蜜酒、竹酒、ちなみにヘンドリックは韓国のマッコリが好きだそうだ。


写真2 酔っぱらって歌を歌うよ

 ヘンドリックは祖父のジョージのもとで10歳から絵を描き始めたが、1998年、24歳の時に初めてジョージから「自分のサインを入れてよい」と言われたという。2006年、エッチングの技術を学ぶために、オーストリアのザルツブルクに赴き、翌年タンザニアに戻った。
 ヘンドリックは「セタニ(精霊)」について次のように語る。
 「セタニは生き物なのですが、見えません。ここにもたくさんいると思います。セタニが怖いと思っている人もたくさんいますが、セタニにも良いセタニと悪いセタニがいます。私のセタニは良いセタニです。」
 見えないセタニは夭折の詩人金子みすゞの「星とたんぽぽ」のワンフレーズを思い起こさせる。
 「見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。」


写真3 ヘンドリック・リランガ

 タンザニアの多様性はアフリカ大陸とインドやイスラム世界と交易で繋がったことに始まる。ゴートスキン(山羊皮)の太鼓に作品を描く手法はイスラムの伝統を継承している。直径20センチほどの作品には、「女の人は舌の治療にお医者さんへ。なぜってすごいおしゃべりで、ご飯を食べると口が痛くなったからさ。」というタイトルがついている。


写真4 ゴートスキンの作品

 2000年夏、多摩美術大学美術館で「サナーヤ アフリカ!-現代アフリカ美術に宿るもの-」展が開かれ、ジョージ・リランガについて次のように評価した。
 「リランガの作品には人類の根源的な宇宙観や神話世界を、身近な人間生活とそれに並行し融和するように描くことによって、アートの可能性を拡張していく力があります。日常と超自然的な世界が併存することを教えてくれるリランガの芸術は、時空を縦横無尽に交錯することで、現代社会に生きる我々人類の本質、文明社会や自然とのかかわりについて啓示を与えてくれます。」
 ジョージの後にはヘンドリックを初め若い画家たちが続く。ヘンドリックは「私の仕事はセタニの新しい意味を見出すこと」と語る。
豊饒なアフリカン・アートの世界はコンテンポラリーアートの中でも独自の地位を占める。変わらなければならないのは「みやげ物」としてしか作品を見ない私たちの姿勢かもしれない。


写真5 わらいながらおしゃべり、友だちだからさ!

倉澤 治雄
千葉県生まれ、開成高校卒。1977年東京大学教養学部基礎科学科卒、79年フランス国立ボルドー大学大学院修了(物理化学専攻)、80年日本テレビ入社。原発問題、宇宙開発、環境、地下鉄サリン事件、司法、警察、国際問題などを担当。経済部長、政治部長、解説主幹を歴任。著書は「福島原発事故に至る原子力開発史」(中央大学出版部)、「原発ゴミはどこへ行く」(リベルタ出版)、「原発爆発」(高文研)、「テレビジャーナリズムの作法」(花伝社)、「徹底討論 犯罪報道と人権」(現代書館)「原子力船『むつ』 虚構の航跡」(現代書館)ほか