ドイツの都市のことを書いてみたい。手始めに今年2月に訪れて記憶が新鮮なドレスデンを取り上げようと思う。
 ドレスデンは、旧東独地区でベルリン、ライプチヒに次いで人口の多い大都市である。もっともライプチヒが52万人、ドレスデンが51万人ということだから、この二つはほぼ同規模である。ライプチヒもドレスデンもともに今のドイツ連邦共和国のザクセン州に属するが、州都はドレスデンの方で、またかつてはザクセン王国の首都だった。これに対してライプチヒは商業都市であり、また大学町として名高い。

過去を引きずる町

 ドレスデンでは、その歴史の栄光と悲惨を物語る事物がいまだに町のあちこちに残っており、時代ごとの景観が時間の厚みの感覚とともに見るものに迫ってくる。この点同じかつての王都であったミュンヒェンなどは、経済的に恵まれているせいか、建物は常に修復され、壁は塗り直されているので、とっくに過ぎ去った時代の景観がいつまで経っても固定されて経年変化がない。そのため逆説的だが時間の厚みが欠けているのである。しかもその建物の内部ではきわめて現代的な都市生活が営まれているのであり、となるといわゆる歴史的景観が嘘っぽく見えてくる。ドレスデンは逆にそれぞれの時代の「化粧」も「傷」も残したまま、素顔を曝していて、そこに生活している人々も過去の記憶を引きずっているように見える。
 過去の記憶と言えば、ドレスデンの王宮を中心とした旧市街地の風景は18世紀中頃のカナレットによる精密な風景画に記録されていて、今エルベ河の対岸から王宮や歌劇場、美術館が連なるブリュールテラスを望めば、カナレットの絵に描かれたそのままの景色を見ることになる。
 戦争で破壊された中心部の再建がおおかた完成したのはつい最近のことだが(今でも一部工事中の一角がある)、有名なフラウエン教会のあるノイマルクト(新市場広場)や王宮を中心とした旧市街地のエルベ川沿いの北半分は、過去の景観が徹底して忠実に再現されたのであり、これに対してアルトマルクト(旧市場広場)を中心とした旧市街地の南半分は1950年に東ドイツ政府の定めた都市建設の原則に従って、古い町並みを撤去して、現代的なビルや集合住宅によって構成されることになった。この原則では、歴史的な建築の復元は、「過去における進歩的様式」が見られる場合にだけ採用されたのである。

空襲と破壊、それに社会主義の記憶

 ドレスデンは第二次大戦の空襲で最も激しく破壊された都市である。
 空襲直後に崩壊しかけた市役所の屋上から撮った写真は有名だ(①)。この世の終わりの光景を思わせるイメージで、広島原爆投下後の原爆ドームと並んで戦争の悲惨さを訴求する写真である。今回訪問した日は、丁度ドレスデン空襲の当日(2月15日)にあたり、市の観光案内所に併設された展示スペースで写真展が行われていた。受付の青年が話しかけてきたので、しばらく談笑した。東日本大震災の後、福島に行って復興のボランティアをしてきたとのことであった。


写真① Wikimedia Commons(Fotothek df ps 0000010 Blick vom Rathausturm.jpg. Aus Wikimedia Commons, dem freien Medienarchiv.)

 私が最初にドレスデンを訪れたのは、ベルリンの壁崩壊の約半年後、1990年の3月であった。当時のドレスデンは、中央駅から旧市街に続く言わばメインストリート(プラーガーシュトラーセ)にも瓦礫が残っていて、市街地全体が荒れた印象だった。このあたりは上にも書いたように、過去の歴史をあえて捨てて、新しい都市景観を造るのだという旧東ドイツの都市政策の強い意志のもとで再建された地区である。こうした徹底的な過去との決別は、旧西ドイツ側にはあまり見られなかったものである。こんな思い切りのいい未来志向の結果できあがってくる景観は、無機的で灰色で、工場に通う労働者が路面電車に乗るシーンの背景としてはぴったりだが、ショッピングをしようという気持ちはとうてい起こってこない。
 もっともこうした無機的な景観に経年変化がおこり、鉄柱が錆びて手入れの行き届かない道路に草が生えてくると、独特のノスタルジックな雰囲気を醸し出す。旧東ドイツでは、1990年であっても石炭のにおいがどこの町にも漂っていて、これが荒涼とした工業都市の雰囲気を盛り上げていた。「東」を意味するドイツ語「オスト」にnostalgiaのドイツ語「ノスタルギー」を掛けて「オスタルギー」Ostalgieという言葉が一時期はやったが、この滅んだ東への愛着の中には、重厚長大産業の独特の風景への忘れがたさも含まれていたのではないだろうか。
 このとき泊まったのは当時としては最新の国営ホテルで、上記の瓦礫の残るプラーガーシュトラーセに面していた。確かに清潔で部屋も居心地が良かったのだが、外観があきれるほど簡素な直方体で、全く味も素っ気もないという言葉がこれほど当てはまる建築も珍しいと思ったものだ。この印象は、バウハウスの唱えた現代建築の禁欲的な簡素さとは全く異なるものである。現代建物の傑作はそれまでも西ドイツ側で数多く見てきたが、それなりに完成度の高い美しさを感じた。このドレスデンのホテルの建物を見たときには、それらとは全く異なる印象を受けた。もし誰か一人の建築家が構想したものならば、建物全体のバランス等に気を配り、簡素ながらも調和のとれた印象をつくり出すはずなのだが、この建物にはそうした気配は全くない。おそらく官僚的な組織の中で規格通り、規則通りに設計したものだろう。この建物の野暮ったさにも逆に懐かしさを感じてしまったものであったが、よく考えてみると、この印象は、1980年ぐらいまでの日本の団地に通じるものなのだ。
 ちなみに、この国営ホテルは今、大手ホテルチェーンのイビスIbisのものになっており、屋上には大きなイビスの看板が取り付けられている。壁も明るい白に塗り替えられ、こぎれいな外観になった。社会主義的な顔をしていた建物が、化粧を施されすっかり資本主義的な顔立ちに化けたのである。
 1990年の訪問時にはドレスデンではちょうど人民議会選挙運動の真っ最中だった。それまでの選挙が社会主義統一党独裁下の形式的なものだったのに対し、東ドイツで初めて行われた自由選挙であり、さらにその年の10月に東ドイツ(ドイツ民主共和国)は西ドイツ(ドイツ連邦共和国)に吸収されて消滅したので、東ドイツでは歴史上一回限りの自由選挙であった。町中の広告塔(リトファス柱と呼ばれる、歩道上に建てられている高さ3メートル直径1メートルほどの円柱)には、今となっては誰も覚えていないような泡沫政党のポスターがところ狭しと貼られ、運動員がビラや風船を通行人に手渡していたりした(②)。こうした運動員は若者が多く、私のような一見して選挙権を持っていそうにないアジア人にも満面の笑みを浮かべて話しかけてきた。みな生き生きとしていて、はしゃいだ雰囲気だった。こうしたこの町の人々の表情は、今回の訪問で出会った空襲の写真展会場にいた受付の青年にも共通しているように感じた。控えめで決して何か声高に主張するというのではないのだが、それぞれの社会参加を誠実に、しかも楽しそうに果たしているという印象である。


写真② 著者撮影

フラウエン教会の再建と歴史的空間の忠実な再現

 ドレスデン旧市街地の中心ノイマルクトの真ん中に堂々とそびえるのがフラウエン教会(聖母教会)である。第二次大戦で破壊され、長らく瓦礫になっていたこの教会の再建については、日本でもよく知られている。瓦礫の石をひとつひとつ拾い上げ、ジグソーパズルのように元の箇所にはめていく気の遠くなるような作業だったという。1993年に着手し、ドレスデン市創基800年に当たる2006に完成した。
 写真(③)は1990年の最初の訪問のときのものと、今年の再訪においてほぼ同じ場所で撮影したもの(④)を掲載する。1枚目にはルターの銅像の背後に、第二次大戦の空襲で崩落したフラウエン教会の瓦礫がそのままに積み上がっている。まさに瓦礫の山とはこのことである。このルターの銅像は、もともとは1885年に作られたものだが、戦後長らく撤去されていて、私の訪問の2年前に再建立されたのだそうだ。


写真③ 著者撮影


写真④ 著者撮影

 撮影した時には、私はこうした事情を知らなかった。そしてある種のアイロニカルな感慨を抱いたことを覚えている。いつまで経っても無残な姿を曝している教会の瓦礫の前に、ドイツの精神的英雄であるルターが、眦を決して何かを訴えかけている。だが日本の知識人が憧れてきたドイツ精神の数百年の帰結がこの瓦礫なのだ、ルターの雄叫びはむなしく虚空に吸い込まれ、却って滑稽ではないか、などと思ったものだ。
 1990年のもう一枚の写真(⑤)には、この歴史的景観の中に、今となっては懐かしいトラバントが何台もわが物顔に駐車しているのが写っている。当時私は誰かから、東ドイツ政府がソ連におもねって、ドイツ人の戦争責任をいつまでも思い起こさせるためにわざと荒れたままにしているのだというようなことを聞いた記憶がある。ところが事実は逆で、市当局はこの瓦礫を撤去して駐車場にしようという計画を持っていたらしい。瓦礫の撤去に反対したのは、教会再建に望みを抱いていた市民の側であり、そのためにいつまでも町の顔とも言える広場が惨めな状態のまま残されたというのだ。


写真⑤ 著者撮影

 今ではこのあたりの建物がおおかた再現されたので、ここを歩くと宮殿、オペラ劇場、官庁街などの建物の配置と、それらで構成される都市空間の構造が持っている意味が理解できるが、1990年の訪問時には至る所工事中で全くわからなかった。
 東ドイツ政府が推進してきた未来志向の都市建設の理念からいえば、この旧市街地の全面的な過去の再現は全く逆の方向である。東ドイツ政府の都市再建理念は、新しい時代の市民生活に合致した都市の建設を目指すものだったので、市民にとっては歓迎すべきものだったはずである。しかし、フラウエン教会の瓦礫の撤去に反対したことでもわかるように、市民の意思は古い建築を再建する方にあった。一般に歴史的景観が否定されることへの市民の反発はどの都市でも強く、経済的合理性はもちろん、たとえ市民の生活にとって好都合であっても、新しい都市計画は歓迎されないのが常である。特に東ドイツのようなイデオロギーの強い国家にとって、歴史的景観は王権のような過去の否定されるべき政治の遺物である。ところが人民の方は、ナチス時代のものは別として、過去の支配者の残したものは、そのシンボリックな意味を含めて維持したいと思うようである。
 歴史的景観はそこに住むものにとって、その土地の過去からの継続性の保証であり、その時間的継続の感覚こそ、そこで人生を送る上での精神的な基盤であろう。だがそれは考えてみると、多様性を唱える政治的立場から見れば、マジョリティの自己同一性の主張であり、強者の暴力に他ならない、ということになるのだろうか。ドレスデンは移民排斥を唱える右翼政党ペギーダの発祥地でもあるが、歴史的景観が混在するこの町の特性とこのこととは関係があるのだろうか。さらにさまざまな活動に誠実にしかも楽しげに取り組むこの町の人々には、歴史の継続性への独特の感覚があり、それが福島の原発被災値への共感から移民排撃まで、シームレスにつながる意識をもたらしているのだろうか、などと今回の訪問では考えさせらた。
 ドレスデンについては、更に興味深いこともいくつかあるので、続編を書きたく思う。

武井隆道
1953年5月31日 長野県生まれ。
1960年より長野県小諸市にて少年時代を過ごす。
長野県立上田高等学校卒業
東京大学文学部、同大学院でドイツ文学を学ぶ。
1987年より筑波大学でドイツ語、ドイツ文学、ヨーロッパ文化等の講義を担当。
研究領域:ゲーテを中心とする18世紀末および19世紀初頭のドイツ文化
最近の研究テーマ:バレエの歴史と宮廷人ゲーテ、18世紀の身体美意識とゲーテ、ゲーテ時代のサロンの瞬間芸(タブロー・ヴィヴァン、アチチュード)