1967年~68年ごろ高校生以上だった方々の中には、「イントレピッド」という名を記憶している人も多いのではないだろうか。これは当時ベトナム戦争に投入されていたアメリカ海軍の空母の艦名で、横須賀港に停泊中だった同艦から4人の兵士が脱走し、その後スウェーデンに亡命したことからその名は日本で知られるようになった。この脱走、亡命を支援したのが「ベトナムに平和を!市民連合」(べ平連)だった。

一連の活動でイントレピッドの4人を含め17人の脱走兵がスウェーデンなどに逃れたとされるが、そのうちの一人をかくまった人物がこのほど一冊の本を上梓した。「我が家に来た脱走兵 ~一九六八年のある日から~ 」(東方出版)で、著者は古くからの友人、小山師人(こやま おさひと)氏である。

通販サイトなどに掲載されている内容紹介を引用すると「1968年3月、ベトナム戦争に従軍していた米兵が我が家に来た。彼は脱走兵のキャルだった。そして48年後アメリカで再会を果たす。当時のベ平連やジャテックの活動等を含め、その間の事情や再会までを描く」というものである。

「我が家に来た脱走兵 ~一九六八年のある日から~ 」(東方出版)

この本の出版をとらえて、ある集会で著者の小山氏が当時京都べ平連の主要メンバーとして活動し、その後長く京都市議を務めた鈴木正穂(すずき まさほ)氏とともに対談を行った。私もメンバーに名を連ねる「自由ジャーナリストクラブ」(JCL)2月例会でのことだ。興味深い内容で本の紹介ともなるのでその一部を報告する。

小山氏は当時NHK大阪放送局のカメラマンで1968年3月2日から3日間脱走兵フィリップ・アンドリュー・キャリコート(キャル)を京都の実家で世話をし、その姿を16mmフィルムに撮影した。そして、撮影から47年後の2015年に封印を解いて上映会を実施、その後アメリカに暮らすキャルの行方を突き止めて再会することになる。

そもそも小山氏はべ平連と深い関わりはなく、個人的に職場の先輩から「脱走兵を預かってくれないか」と持ち掛けられ3日間にわたってキャルを京都市内の実家に預かり、その後次に引き受ける人に受け渡しただけだという。脱走米兵の逃走支援を実際に手掛けたのはべ平連関係者によって組織された「JATEC(Japan Technical Committee to Aid Anti War GIs)」(ジャテック)だった。摘発を受けた際に芋づる式に関係者が捕まるのを防ぐためジャテックでは脱走兵に関わることは一切秘密にすることを強く求めたという。協力した人たちの多くは今に至っても沈黙を守っている。

小山氏が撮影した“脱走兵”キャル

小山氏は「メモはあかん」と言われたが16mmで撮るなとは言われなかったのでキャルの姿を撮影したとのことだ。そのおかげで貴重な映像が残り、その後のキャルの人生を確かめることが可能となった。さらにこの本が出版されて脱走兵の存在やべ平連の活動に改めて光が当ることになる。危機管理の面からは危険な行動であったとは思うが、カメラマン根性の功績というべきか。

小山師人氏 鈴木正穂氏(右)自由ジャーナリストクラブ2月例会(大阪市内)

逃走の手助けには当局の目から逃れること以外にも、様々な苦労があったという。鈴木氏の話によると脱走米兵の中には「梅毒のやつやら、酒で暴れるやつもおった」そうだ。1969年5月には酒を飲んで大暴れし京都府警川端署に連行される“事件”が発生したり、妻の留守中に支援者の新婚家庭の寝具を使った米兵に梅毒の疑いが出たこともあったという。その夫は未だに妻にそのことを打ち明けられないでいるという。ベトナムの過酷な戦場から逃れてきた若者であることを考えると、肉体的にも精神的にも荒廃していたことは当然だったかもしれない。

脱走兵の受け渡しはかなり緊迫したものだったようである。ある時指令が届き、いついつにどこそこの見ず知らずの人に出会って目立つ外国人を密かに受け渡さなければならない。本来なら綿密な連絡が必要だ。しかし、当時は携帯電話やメールなどはもちろんない。固定電話さえない家もあり、下宿の住人などは大家のから呼び出してもらって連絡を取る。京都でべ平連活動の中心的な役割を担っていた哲学者の鶴見俊輔氏の自宅には電話がなく、急ぎの連絡は電報だったという。そのような中、脱走兵の受け渡しは概ね円滑に行われた。

その背景の一つには、こうした活動に寛容だった当時の空気があったのではないだろうか。小山氏の本には実名で書かれているが、協力者は当時関西の私立大学で学生部長だった助教授や国立大学教授の仏文学者など学者をはじめ、演劇鑑賞団体の事務局員や“親が呉服商”という裕福な学生などごく一般的な人たちが多かったという。鈴木氏によると、脱走兵をかくまったことが知られても「非国民みたいな感じの非難をされることはなかった。むしろ、大変やったね、と同情的だった」そうだ。

小山氏とキャル

関係した人たちは脱走兵をかくまうことは「重罪」を科せられると当時は思い込んでいた。のちに法律的に精査すると、これを日本の法律で罪に問うのは難しいことが分かったという。その理由は米兵の脱走を処罰する法律は米国のもので日本の法律にはないうえ、密出国を禁じる出入国管理法(当時は出入国管理令)に関しては日米地位協定によって米兵とその家族は出入国管理の対象外とされることから、その「ほう助罪」も適用できないのだという。

ただ、今同じことをした場合、想定していないような法律が持ち出されて協力者は罪に問われる可能性が高いのではないかと思うし、SNSなどで袋叩きにされて場合によっては職を失うなど社会的に大きなダメージを受けることになるだろう。日本の社会のこの50年間の変化は残念ながら寛容とは遠いところに向かっている。

この本にはキャルがスウェーデンに逃れた後どのような人生を歩んだかなどについても詳しく書かれている。興味をお持ちの方はぜひ読んでいただきたい。

高校生当時使っていた機材

ところで、私とべ平連にはある接点がある。この本に書かれた出来事があった翌年の1969年の秋、私は高校2年だった。そのころ神戸でもべ平連が定期的に集会とデモを行っていた。今は市庁舎の建て替えのために移転したが、当時市役所北側にあった「花時計」前がその集合場所だった。

“写真少年”だった私はカメラを携えて集会に参加していた。集会の周辺には公安担当の警察官と思われる私服の男たちが遠巻きにして望遠レンズを付けたカメラでしきりに写真を撮っていた。ある時こちらもカメラを持っているのでお相子だろうという軽い気持ちで彼らの姿を写し、次の集会で立て看板にそれらの写真を掲示した。

それまで高校生の私などはノーマークだったにもかかわらず、その日を境に彼らの見る目ががらりと変わった。バチバチと写真を撮られ、尾行を受けることもあった。どうやら通っていた学校にも連絡がいったようで母親が担任の教師に呼び出しを受けたりもした。正直ビビった。

そのときに学んだことはふたつ。ひとつは「権力」を実感したことである。厳つい男たちから一斉に険しい視線を投げかけられ、カメラで狙われることが16歳の少年にとってどれだけ威圧的だったか。笑わずに想像していただきたい。もうひとつは「映像」の持つ直接的な力だ。顔写真を撮りそれを公表する行為は彼らにとって許しがたいことだったのだろう。誰が撮るにせよ写真という具体的な情報はそれ自体が力を持つことを知った。

部屋の片隅に押しやっていた箱の中から数十年ぶりに当時使っていた機材を引っ張り出してみた。ボディは「ニコマート」、レンズは「スーパーコムラー UNI オートズーム 75-150mm F4.5」だ。申し訳ないことにカメラもレンズもカビに覆われ、見る影もない。

いま、それは当時の集会やデモの光景を甦らすとともに、私自身のうちにあるカビの存在に気付かせる。