進歩か破壊か?-「現代温泉旅館事情」「阿佐ヶ谷住宅のこと」のエピローグとして

2018年にこのサイトで、「現代温泉旅館事情」「阿佐ヶ谷住宅のこと」というタイトルでそれぞれ前後編に分けて四回にわたり執筆したが、書いている間念頭にあったのはヴァルター・ベンヤミンの書いたパウル・クレーの絵『新しい天使』Angelus Novusについての文章である。私は本サイトに投稿した「現代温泉旅館事情」(下)の最後にベンヤミンを引き合いに出して「滅びつつあるものの潜在的可能性」と言ったが、そこでは話が本題から逸れないように、言わば予告しておき、こうして最後にもう一度触れようと思っていた。

ベンヤミンはナチスから逃れるためにパリからスペインまで行こうとするが、国境を越えることができず、またパリへと収監されそうになりそこで力尽きて自死を遂げるが、最後に書いたものとなったのが『歴史の概念について』という断片集で、その中の一つがベンヤミン自身が最後まで所有していたパウル・クレーの『新しい天使』についての文章である。

(1) パウル・クレー Angelus Nobus

「歴史の天使は顔を過去に向けている。一連の出来事が私たちの前に現れるところに、天使は唯一の破局Katastropheを見る。瓦礫の上に瓦礫を積み重ね、それらを天使の足許に投げるような破局を。たぶん天使は踏み止まって、死者たちを目覚めさせ、壊されたものをまたいっしょに組み合わせたいのかもしれない。だが楽園から嵐が吹いてきて翼をとらえ、それがあまりに強風なので、もはや翼を閉じることができない。この嵐が天使を否応なしに背を向けている未来の方へ動かす、そのあいだにも瓦礫の山は目の前で天高く積み上がっていくのだけれど。我々が進歩Fortschrittと呼ぶものはこの嵐なのだ。」(太字強調は原著者による)

歴史をいかに見るかを詩的に語っている含蓄に富む文章である。なぜ「楽園」Paradiesから「嵐」Sturmが吹いてくるのか?「楽園」の位置はどこにあるのか?遠い過去なのか、未来なのか?いくつかの謎めいた箇所がある。そして「天使」とはいかなる存在なのか?いや、存在とは言えないかもしれない、歴史の片隅で過去に失われたものをなんとか再生しようとしている天使の姿は我々には不可視だからである。しかし、誰かが「破局」によって滅んでしまったもの、滅びつつあるものに目を止めてそれを救わなければならない。
ここで言われている「瓦礫」Trümmerは暴力的な破壊によるものだと狭義にはとらえられる。ベンヤミンはナチスの暴力的脅威の時代に生きていたのだから、さしあたりそれは穏当な理解であろう。しかし、この文章に見られる「進歩」と「嵐」の関係に対する独自の視点を受けて、私はもう少しこのTrümmerの意味を拡げて深読みしてみたくなる、仮にそれが「誤読」へとはみ出していたとしても。
例えば、私は2017年と2019年に東日本大震災の被災地を見に陸中海岸に行って来た。人が住んでおらず観光名所になっている切り立ったリアス式海岸を除く、海辺にあって大きな津波の被害にあった市町村は、至るところ「何をおいてもまず」巨大な長い堤防が作られていて視界から海を閉ざした。その内側のかつての市街地はまだこれからの計画も見えないままひっきりなしに盛り土を運ぶトラックが行き交っている。商店街や町にとって中核となるような施設もないような離れた高台には一時的、あるいはずっとそこに住むのかもしれない家々が建てられていた。
町とは様々な複合的な機能が隣接して共存するからこそ、人間の住む場所としての意味をもつのである。この新しく綺麗ではあっても隔離された家並みはもはや町とは言えない。一方、陸中山田町や南三陸町の荒涼とした更地に作られた駅やそこから程近い銀行や縁日の広場のように作られた飲食店や商店といった公共の建物もまるで西部劇で荒野の向こうにぽつんと見える建物で住民という背景を欠いた書き割りのように見えた。

(2) 陸中山田駅(2017.9)
(3) 陸中山田町旧市街(2017.9)
(4) 大槌町の駅と市街の中心地があった場所(2017.9)
(5) 南三陸町仮設商店街(2019.3)
(6) 南三陸町仮設商店街から工事中の旧市街を望む(2019.3)
(7) 南三陸町旧市街付近から海を望む(2019.3)
(8) 陸前高田市の高台の仮設ではない新しい住宅地(2019.9)

2019年10月に起きた台風19号による河川の堤防決壊が招いた大規模な水害の光景は震災時の津波同様、自然の猛威を感じさせるとともに、これは防げたかもしれない対策を怠ってきた人災なのではないかと考えさせる契機にもなった。八ッ場ダム支持派はさらに大きな水害になることを防いだとダム建設の正当性を声高に主張したが、それは試運転中の空の状態だったからであることは明白である。拓殖大学の環境政策研究の関良基教授は、八ッ場ダムの満水により江戸川の水位は最大でもおそらく1cm程度下がったに過ぎないと試算している。また1998年度に国交省はスーパー堤防の1/100のコストで建設可能な対越水堤防の建設を重点化しようとしたのに、2008年度にこの計画が中止されたことについて関氏は、ダム建設のようには利権を生まないがゆえにつぶされてしまった可能性が大きいことを指摘している。となれば、ダム中心に進められてきた治水行政の隙間に豪雨が襲撃を仕掛けてきたと言ってもよいのではないか(*後注参照)。それは、一見創造的建設と思えるものが実は破壊に繋がっているという意味では、三陸の防潮堤のケース同様、経済効率の前に住環境と文化を二の次にしてきた開発政策へのしっぺ返しと言えそうである。八ッ場ダムに沈むために高台に引っ越した群馬の新しい川原湯温泉は、温泉街というよりは、まるで郊外の新興住宅地であり、奇祭の湯かけ祭りの中核となる神社も森の中からコンクリートに囲まれた場所に移されていた。私にはその建物がこれから新時代のアウラを纏っていくとは到底思えず、神社であるのに無残に魂を抜かれてしまった廃屋のように映った。

(9) 建設中の八ツ場ダム。左上に見える集落に、川沿いにあった川原湯温泉街が引っ越した(2015.11)
(10) 新川原湯温泉神社を横から見たところ
(11) 八ツ場ダム建設で引っ越す前と後の川原湯温泉神社

あるいは、東京の都市開発においても。少し前に、立川で映画を見た帰り、昔飲みに行った国分寺駅北口の戦後の雰囲気を残したような飲み屋街が懐かしくて寄ってみた。ところが駅自体も駅前もすっかり変わっていて飲み屋街もなくなっていた。駅ビルは南北をつなぐコンコースを中心に、ガラス張りのモダンなビルにたくさんの店舗が入っている最近はどこへ行ってもありがちなパターン。駅を出て振り返ると30階もあろうかという高層マンションが二棟聳えていて(明かりもまばらだし、売れているのだろうか?)、そういう街づくりに相応しく、個人がやっている飲み屋街は駆逐され、その代わりにおなじみのチェーンの居酒屋の赤や黄色の原色の看板が並んでいるというように様変わりしていた。

(12) 国分寺駅北口風景(2019.2)

仕事帰りによく行っていた小田急線の経堂の駅ビルも、昔は個性的な店がたくさんあったのに、新駅ビルになるや、お決まりの「王将」や「さぼてん」、「和幸」や「大戸屋」等々ばかりである。駅ビル名もJRならATRE、小田急ならCORTYとか統一してしまうこともあって、こういった町の風景は今や中央線では三鷹~立川までほぼ同じようなことになっている。とりわけ三鷹より先は元々駅前でも土地に余裕があった広い武蔵野だけに、開発を進めるのが容易だったのであろう。

本来、利便性、快適さを目的としたはずのこの街づくりは、最大公約数的にその目的や消費者の欲望を満たしてはいるので、「良くなった」と言う人も少なくないと思う。しかし、私はすべてをローラーで地ならしし、レディメイドのパッケージ建築をレゴのように並べていく画一的で強引なものを感じてしまう。先日のネットでも、日本に住み愛するがゆえに苦言を呈さずにはいられないアメリカ人のアレックス・カーが京都の現状について嘆いていた。外国人観光客が増えたので、中心部の人が住まなくなった町屋を改造して宿泊施設にリフォームする運動を地道に進めてきたけれど、結局は町屋をまとめて壊し、効率よく利益があがる滞在型のマンションホテルを建ててしまい、皮肉なことにどんどん町屋が減っていくという話である。中心部は開発を認めず、例えば風致地区ではない駅の南側を開発するというような発想が行政の側に全くないどころか、開発する業者と手を携えてしまうことをカー氏は批判していた。
これもまた、三陸の被災地の巨大な防潮堤に感じたものと同質なものであるように思えるのだ。すべて津波で流された陸前高田松原で唯一残ったことで有名になった高田の一本松のあったところに震災前の松原の写真があったが、まさにその松原の位置に今や長大な防潮堤が築かれており、その手前のかつて市街地だったところには広大な更地が広がっている。

(13) 陸前高田。一本松と旧ユースホステル。その向こうに新防潮堤。(2017.9)
(14) 震災前の高田海岸。この松原が上の写真の新防潮堤になったとイメージすれば現状がわかりやすい。(2017.9)
(15) 陸前高田。消失した市街地。一本松と新防潮堤を遠望(2017.9)
(16) 田野畑村の海岸。上が津波から残った集落。(2017.9)
(17) 田野畑村の旧防潮堤の残骸と新防潮堤(2017.9)
(18) 田野畑村の新防潮堤(2017.9)
(19) 陸中海岸の至るところでみられる小さな入り江の村落の新防潮堤(2019.9)

もちろん、これは人災ではなく、天災ではあるのだが、この震災の前の松原の写真(14)と現在の防潮堤(13)の姿を見ていると、「未来」に人間を守るためのこのまだ真っ白なコンクリートの建造物がまるで、見るものを滅入らせる何かの重苦しい廃墟のように見えてくる。それは、何百年かに一度の自然の破壊力の脅威に対する威圧的な対抗措置として性急に構築した物は(もちろん、それはゼネコン的な建設・建造の無限の継続と利の特権的循環の構造と結びついている)、その破壊力を手なずけ、共存する他の方法を一切考えない非情さにおいて、その行為自体も暴力的な自然破壊の性格を帯びるからではないのか?海は人間にその何百年に一度の「悪さをした」ために、長い間むしろ豊かさを与え続けてきたという側面からの弁明など聞いてはもらえずに瞬く間にゼネコンに逆隔離されてしまったのではないか?
コンクリートの耐久性も50~100年である(しかも塩害による劣化が大きい海岸部なのである)。私の友人は、いつか、万里の長城、ベルリンの壁と並び、コンクリートがひび割れ赤茶けた鉄芯がむき出しになったこの防潮堤が世界三大長壁となる日がくるかもしれないと皮肉を言っていた。そうして本当の廃墟となったとしても、その廃墟はロマン派が廃墟に見ようとしたような、そして私が本論のシリーズで繰り返している過去の潜在的可能性を喚起させるアウラを伴うものとは成り得ないであろう。
私が「阿佐ヶ谷住宅のこと」で触れたように、老朽化した団地が「廃墟」化していくのではなく、それを全て壊し更地にし、そこに高層マンション群を「建てる」ことに、むしろ「破壊」をみてしまうのはおかしな物の見方であろうか?しかしベンヤミンのいう「進歩」とはそういうネガティヴな響きを含んでいる。より快適な未来を目指しているはずのマンション群の建設は、その華やかな外観、快適な内部空間にもかかわらず、もしかすると進歩ではなく、時代の制御できない奔流の産物かもしれず、「破局」の兆しを孕んだものかもしれないのである・・・と言ったら「何をふざけたことを大げさに」と言い返されるだろうか。第一、ナチスのパリ侵攻から逃れスペイン国境で自殺したベンヤミンのおかれていた緊迫した苛烈な状況と現代の豊かで安定した日本でのリゾート産業やマンション建築の話とは接点などないではないかという声が出てももっともなことである。私の言葉は極端に走っており、その言葉の対象は政治、経済、社会への批判であるならともかく、温泉旅館の現状の話にはお門違いなものだという意見もあるだろう。

しかし、ではなぜ「楽園」から「嵐」が吹いてくるのだろうか?ベンヤミンが「一連の出来事が私たちの前に現れるところに、天使は唯一の破局を見る」(太字強調は原著者、小文字「天使」は筆者による)と言うとき、この「一連の出来事」は何も政治経済上の事柄や悲劇的な事象ばかりを指すわけではなく、ある国における繁栄や成長の時期や好景気の状況における出来事も含んでいる。そこでの可視的な世界で「私たち」に見えないものを否定的な陰画として「天使」は見ているかもしれないのだ。このBee Mediaというサイトが掲げている「真っ当な批評」ということに引きつけて言えば、批評とは過去を「追想」eindenkenし、あり得たかもしれない過去のへのイメージを未来へ「投企」entwerfenしつつ、現在を語るためにあるものだと私は思う。例えば、太平洋戦争のことを語るとしても、それは過去を検証するだけでなく、一見戦争と関係なく見える現在の事象の連続のなかに、過去から通底している日本的な集団的エートスやメンタリティを感じ取り、未来を一足先に察知し、現在に生かすことでなければ、何の意味もないであろう。この過去を現在にオーバーラップさせることは、とりわけキナ臭い昨今の政治状況を考えるとき、より切迫したアクチュアルな意味をもつはずである。そうであればこそ、批評とはそこに人間が関わるならば森羅万象の全てを対象とすることができるだろう。そして日常のつまらぬことと映る些細な出来事も。
話を『新しい天使』に戻して言えば、我々には不可視の天使の目には、一連の日常の個々の出来事も「唯一の」破局の流れと映るかもしれないのだ。我々は原罪を背負って楽園から永遠に追放されたのだとしても、もはやそのこともとっくに忘れ去り、その記憶も遠い遠い過去の消失点の彼方にあるのだろう。だから「人間」である限り「嵐」の中にいるのにも関わらず、我々は「嵐」を「嵐」と感じることができず、いや、それどころか「嵐」を時には快適さのうちに「進歩」だとすら感じており、むしろ天使が代わりにその翼に「嵐」を受け止めているのではないか?それゆえに、天使は瓦礫の山を捨て置いて未来に目を向けるのではなく、滅んだものを弔い瓦礫の山を組み立て直そうとしながら、後ろ向きで「否応なしに背を向けて」未来へ向かうのではないか?だからこそ我々は未来へのかすかな可能性のために、せめて嵐を苛酷な試練として受け容れざるを得ない「新しい天使」の姿をイメージする感性は鈍化させずにおきたいものだ。
クレー自身もこの絵についてこう言っている。「私はこの世ではとらえられない。何故なら私は、未だ生まれざるものたちのもとに、そしてまた死せる者たちのもとに住んでいるからだ」と。

いやはや、「現代温泉旅館事情」では温泉旅館の話をしていた筈が、いつの間にか自分でも予想していなかったとんでもないところまで漂流してきてしまった。どうやら私は、温泉旅館というテーマで、何が消え何が残ったかということを考えているうちに、同時に現在において何が流行っていてこれからどうなるかと考える前に、消えていったものについてきちんと考えておかなければならない気持ちになってしまったのだと思える。「現代温泉旅館事情」の「下」においては、自分が住んでいた東北への記憶と、二回見に行った被災地の記憶が重なり、多少個人的な色調になってしまうことを承知で、消え去っていったものをこの機会に追悼しておきたいという気持ちになったのだと感じる。
続く「阿佐ヶ谷住宅のこと」も、その同じ問題意識の延長線上で少しだけ補足的に書こうと思っていたが、故津端修一夫妻のドキュメンタリー映画「人生フルーツ」を見て、かつ「奇跡の団地 阿佐ヶ谷住宅」という本を読んでいるうちに、こちらも失われたものへの思いが強まってきてしまった。何しろ阿佐ヶ谷住宅は私の家の近くに2012年というついこの間まで存在し、しょっちゅう通り過ぎ、時々休んでいた場所であるがゆえ、それはまだ生々しい記憶としてあるからである。だから、それがなくなってしまったことの意味を自分の中で反芻し、整理しておきたかった。それも、また追悼の作業であると言えよう。
そういう試みへと向かわせた背景には個人的に親や親しい友人・知人の死があるのだろう。人間は同時にその人が暮らしていた時代、そしてその時代に存在していた事物と共にあり、だからいなくなってしまった人間を回顧することは、包括的にその時代を回顧することにも繋がっていく。
現在の奔流の中でも、自分にとって貴重であると思える過去を手放さないこと、そしてそれをかすかな未来の可能性のために現在の起点とすること。ベンヤミンの言う過去への「追想」(かつて-ありえた)を未来への「投企」(いまだ-ない)へと反転させることとはそうした行為なのではないだろうか?(了)

(20) ヴァルター・ベンヤミン

*(注)関氏は、八ッ場ダムの建設費5300億円で、およそ1000キロ程度の堤防補強が可能だと言っている。関良基教授の論評については、Facebookの2019年 10月14、15、20、21、30日の投稿を参照

写真は著者の撮影であるが、(1)、(20)および以下の2点のみWebからの引用である。
(10) https://allabout.co.jp/gm/gc/471335/ 「All about旅行」坂本めぐみの記事
(11)「じゃらん観光ガイド」川原湯神社

木下直也
東京都杉並区生まれ。都立富士高校卒。東京大学大学院ドイツ文学科で修士号取得。弘前大学を経て、現在成城大学に勤務。東京大学、東京芸術大学、東京女子大学などで非常勤講師。専門分野はカフカを中心としたドイツ近現代文学、古典派~ロマン派の音楽。論文で扱った作家、哲学者、音楽家は、カフカ、リルケ、ニーチェ、ハイデガー、ハントケ、シューベルト、ベートーヴェンなど。共訳書にヴォルフガング・イーザー『虚構と想像力-文学の人間学』。研究分野に関しても、現在のポップカルチャーを扱うにしても、アカデミックな閉域にもオタク的趣味の閉域にも籠もらぬよう、常に時代と世界に向けて風通しをよくしておきたいと考えている。