「原発爆発」映像の衝撃

 20世紀は「映像の世紀」と呼ばれる。写真や映画、テレビは20世紀に入って偉大な発展を遂げた。21世紀に入り、これにネットが加わった。人々は歴史的な事実を映像として記憶する。「ケネディ暗殺」「東京オリンピック」「アポロ11号」から「ベルリンの壁」「天安門事件」「昭和天皇崩御」「地下鉄サリン事件」「9.11同時多発テロ」「東日本大震災」まで、歴史的出来事は映像として人々の脳裏に刻まれている。
 映像が残っているということは、そこにカメラがあり、映像を記録した人間がいたということだ。「原発爆発」映像は、間もなく8年目を迎えようとする東京電力福島第一原発事故の象徴として、私たちの脳裏に焼き付いている。
 1号機の爆発は3月12日午後3時36分だ。すでにニュース部門を離れていた私は自宅でテレビを観ていたが、1号機で「何かあった」ということ以外、リアルタイムで伝えられた情報は皆無だった。3号機の爆発は3月14日午前11時06分だ。前日13日の早朝、会社に呼び出された私は、3号機の爆発に日本テレビのスタジオで立ち会った。その瞬間、報道局全体が「ざわーっ」とした雰囲気に包まれ、解説を担当していた私は有無を言わせずスタジオに引きずり込まれた。
 送られてくる映像を前に、私は足が震えるのを押さえながら、見たままを伝える以外にすべはなかった。3号機の建屋上端から炎が上がり、爆発とともに黒い大きな煙が500メートル以上に立ち上った。しばらくすると吹き飛ばされた大きな塊が、次々と落下しているのをライブ映像でも確認することができた。「1号機の爆発とは違う」という直感とともに、 「これは大変なことが起きた」との緊張が襲ってきた。
 原子力開発史上初めて捉えられた「原発爆発」映像は一体誰が撮ったのか。
 先日、ある組合の青年部に呼ばれて、事故当時の話をする機会があった。最後に若い組合員から、「なぜ爆発映像では音声を放送しなかったのか」と問われて愕然とした。同様の指摘は国会事故調査委員会で委員長を務めた黒川清からも聞かされた。黒川は何度も講演でこの話を語り、著書「規制の虜」(講談社2016年)でも皮肉を込めて次のように書いている。
 「福島第一原発後の1週間、どのメディアも同じようなニュースしか伝えなかった。3号機が爆発した時、どんな音がしたか皆さんはご存知ですか。ものすごい爆発音が3発していました。その映像はyoutubeには出ていたが、テレビニュースでは無音になっていました。日本のメディアはずい分親切なことをするものですね」
 とんでもない誤解である。実は「原発爆発」映像には音声がない。なぜ音声がないのか、黒川が委員長を務めた国会事故調査委員会をはじめ、誰も正確な事実を記さないまま、誤った情報が独り歩きしてしまったのである。

写真1 1号機爆発
福島第一原発1号機爆発 2011年3月12日15時36分

周到な準備が生んだスクープ映像

 「原発爆発」映像を撮影したのは福島中央テレビ(FCT)だ。FCTが福島第一原発から南西17キロの山中にある中継塔にカメラを設置したのは2000年のことである。1台のカメラでレンズを左に向けると北の福島第一原発、右に振ると南の第二原発を撮影することができる。NHKはすでに原発により近い海岸線に第一・第二原発兼用のカメラを設置していた。原発カメラ設置の理由について、東日本大震災発災当時の報道制作局長佐藤崇は語る。
 「前年(1999年)に起きたJCOの臨界事故によって、日本でも深刻な原子力施設の事故が起きることをあらためて認識し、原発立地県のテレビ局として、常にウォッチする必要があると考えたからです。」
 折しも地上波テレビ局ではアナログからデジタルへの移行が進んでいた。2003年には三大都市圏、2006年には全国のテレビがデジタル化されることが法律で決まっていた。NHKは海岸線のアナログカメラをデジタルカメラに切り替え、FCT以外の福島の民放3社は共同で両原発から10キロほどの場所にデジタルカメラを設置した。FCTは独自に第一原発から2.3キロ、第二原発から1.7キロの地点に1台ずつ増設した。これに伴い、山中にあるアナログカメラを撤去することを検討したが、当面バックアップとして残すことにした。そしてこの判断がスクープを生んだのである。
 2011年3月11日午後2時46分、マグニチュード9.0の「東北地方太平洋沖地震」が発生、原発を震度6強の地震が襲った。この地震で海岸線近くに設置されていたNHKと民放のデジタルカメラは電源が切れて機能を喪失した。たった1台生き残ったのが17キロ離れたアナログカメラだった。電源が内陸の送電網から引かれていたために生き残ったのである。
 無人カメラとはいえ、映像を撮影して伝送し、視聴者に届けるまでには多くプロセスが必要となる。まずカメラと本社をつなぐ2本の通信回線が必要だ。1本は映像を伝送する回線、もう1本はカメラを遠隔操作する制御回線だ。このカメラにマイクはついていない。そもそも「爆発音」を捉えることはできなかったのである。無音の「原発爆発」映像に「爆発音」を加えたのはドイツのテレビ局だ。その映像がyoutubeにアップされ、世界に拡散してしまったのである。

「直感」と「偶然」と

 原発を凝視し続けていたアナログ無人カメラは、富岡中継局と呼ばれる鉄塔に据え付けられていた。富岡中継局と本社をつなぐ映像回線は、ヘリコプターからの中継にも使われる。3月12日午前、テレビ新潟のヘリコプターが浜通りに到着、津波被害の状況を伝送するため、中継回線はヘリコプターの映像に切り替わった。午後にはヘリコプターは原発周辺を遠巻きに旋回、映像を中継しながら海岸線を宮城県方面へと移動した。
 中継回線がヘリコプターの映像から原発に向けたカメラに切り替わった直後に、爆発が起きた。もしこの時間帯に、まだヘリコプターが飛んでいたら、レンズが爆発を捉えていても、映像の記録としてFCT本社に送られることはなかった。少なくとも1号機の「原発爆発」映像がこの世に存在することはなかったのである。
 日頃の備えに加えて、直感やとっさの判断がスクープにつながった。たった一つ生き残ったアナログカメラから送られてきた映像は、ハードディスクで24時間収録されていたが、放送に使用するには取り出してビデオテープかハードディスクにダビングしなければならない。

写真2 FCTカメラ
「原発爆発」映像を撮影したFCTのアナログカメラ

 当時FCTニュースセンターでは余震が続く中、地震と津波被害の放送に追われていた。編集兼チーフカメラマンの箭内太は1号機からわずかに煙が出ていることに気がつき、反射的に別の録画機のスイッチを入れた。1号機が爆発したのはそのわずか4分後のことだった。ニュースセンターで爆発の瞬間をリアルタイムで見たものはいないが、誰からともなく「煙!」という小さな声が漏れ、全員の目がモニターにくぎ付けになった。煙を見た瞬間、箭内は「尋常じゃないと思った」と言う。
 爆発から4分後、報道局長の佐藤は直ちに「カットイン」、つまりキー局の日本テレビから流れている番組を中断して、ローカル放送に切り替えて、爆発の事実を伝えるよう指示を出した。アナウンサーのコメントに続いて、福島第一原発の生中継映像が流れた。爆発から4分が経過した現場は、すでに煙が薄くたなびく程度になっていた。
 「こうじゃないんだ」
 福島第一原発の危機を伝えるのに、誰もがもどかしい思いだった。そこに箭内が録画したVTRが届いた。明らかに大きな爆発が起き、原子炉建屋が噴き出す煙に包まれていた。もし箭内が録画機のスイッチを入れなければ、爆発4分後のローカルニュースで第一報を映像で伝えることはできなかっただろう。原子力開発史上初めての「原発爆発」映像が放送された瞬間だった。

 カメラはその後まもなく、相次ぐ余震によって制御用の回線が途絶えてしまい、向きを変えることができなくなった。しかし、3号機の爆発時には、幸いレンズが原発を捉えていた。

(写真3 3号機爆発映像
福島第一原発3号機爆発 2011年3月14日午前11時1分

 FCTが撮影に成功したもう一つの要因は、原発カメラの運用方法を徹底していたからである。カメラは社内の原発事故想定訓練や気象情報にも使われたほか、福島第二原発に向けられることもあったが、使い終わったら必ずカメラを福島第一原発に向けるというルールを10年以上にわたって徹底していた。事故が起きるとしたら、古い原子炉が6基並ぶ福島第一原発の確率が高いとの計算からだった。
 その後の余震で、カメラは向きがずれて、原発が画面から外れてしまう事態となったが、技術スタッフは防護服に身を固め、警戒区域に入ってカメラを原発に向けることも厭わなかった。

「爆発」か「大きな煙」か

 第一報を伝えたのはアナウンサーの大橋聡子だ。ヘルメット姿の大橋はこう切り出した。
 「先ほど福島第一原発1号機から大きな煙が出ました」
 大橋は「爆発」という言葉を使わなかった。それを指示したのは佐藤だ。佐藤は原発訴訟の取材を通じて、原子力発電の仕組みにも精通していた。「爆発」という言葉を使わせなかった理由を佐藤はこう明かす。
 「意思決定をしたのは私です。どう見ても爆発で、私の取材経験から『水蒸気爆発』や『水素爆発』、それに『施設の燃料系の爆発』があり得るという知識はありました。核燃料の濃縮レベルでは核爆発には至らないと考えていました。しかしあの映像を『爆発』という言葉で表現すると、多くの人は『核爆発』を連想してしまうでしょう。アナウンサーの大橋からも『爆発と言っていいですか?』と問われましたが、私は『爆発とは言わずに見たままを表現するように』と指示しました。大橋も「大きな煙」と言うよりほかに表現のしようがなかっただろうと思います。」
 編集室で佐藤と箭内が映像を巻き戻して確認すると、1号機の何が爆発したのかはわからなかったが、何かが爆発したことは明らかだった。映像を拡大すると1号機の建屋が吹き飛んでいた。わずかながら炎も見えた。
 「私は報道にブレーキをかけたつもりはありません。ただ不確実なことは言えない、むしろ核爆発のように誤解されてはいけないと思ったのです。」
 放送の責任を担う佐藤のぎりぎりの判断だった。
 爆発映像が「撮れてしまった」ことに対する記者の思いは複雑だ。原発取材の最前線に立つ村上雅信は、FCTが編纂した「原発災害、その時テレビは・・・」で次のように語っている。
 「FCTはあの福島第一原発1号機と3号機の爆発の瞬間を撮影したテレビ局です。あってはならない事故ですがその瞬間を世界で唯一撮影したテレビ局として表彰もされました。しかし、嬉しいなんて感じたことは一度もありません。むしろ大きな十字架を背負わされたと思っています。」

なぜ全国に中継されなかったのか

 ところでこの映像が全国に流れたのは、爆発から1時間13分後の16時49分だ。爆発直後、報道部長の小林典子はすぐにキー局である日本テレビに一報を入れた。デスクの松川修三も受話器を握りしめ、日本テレビに「大変です、爆発が起きたようです。真っ白なんです」と伝えた。FCTは日本テレビに対して何度も爆発の事実を全国放送するように要請したという。
 日本テレビにも爆発の映像は届いていた。しかし報道局幹部はそのまま放送するとパニックが起きるとためらったという。解説出演のため日本テレビ報道局に来ていた東京工業大学教授の有富正憲も、「この映像が本当なら大変なことだ」と放送に慎重な姿勢に終始した。

写真4 大橋アナウンサー
全国中継で爆発の第1報を伝えるFCT大橋アナウンサー

 原発爆発の映像が全国ニュースで放送されたのは、午後4時49分で、ローカルニュースでの第一報と同じく、大橋が伝えた。大橋は日本テレビが原発爆発映像を全国放送しないことに業を煮やしていた。
 「私は日本テレビが当然放送するものと思っていましたので、放送しないと聞いて、稚拙な表現ですが、むかつきました。今思い出しても怒りで熱くなってしまいます。1時間20分後に、たまたまアナウンスブースに座っていたら、突然予告なしで振られました。全く違うニュースを読んでいたら、あの映像が流れたのです。私がアナウンスブースに座っていなければ、放送はもっと遅れたかも知れません。」
 全国ニュースでの大橋の一報を受けて、画面が日本テレビからの解説に切り替わると、専門家として登場した有富は爆発映像について、「爆破弁を開けたとみられる」とコメントした。私は後に有富に、なぜ「爆破弁の開放」とコメントしたのか問う機会があったが、有富は「選択肢は4つほどあったが、爆破弁の開放が最も有力と思った」と語った。
 同じころNHKに出演していた東京大学教授の関村直人も「爆破弁の開放」と解説した。「爆発」と認めないことが原子力ムラの暗黙の了解であるかのようだった。
 「原発爆発」映像の放送によって、菅直人率いる当時の官邸は、ようやく事態の深刻さに気がつくのである。

報道の仕方で被害が変わる

 放射能の被害から人々の命と健康を守るという視点で考えると、この1時間13分の遅延は極めて重要だ。原子力防災の専門家である元四国電力の松野元は語る。
 「3月の福島はまだ日が短く、5時くらいになると陽が落ちて気温が下がります。加えて農村部の夜は早い。刻一刻と避難するタイミングが遅れ、住民は余分な被ばくをしてしまったのです。」  
 事実、事故発生からすでに24時間が経過していたが、かなりの住民が避難の途上にあった。浪江町のある消防団員は、10キロほど離れた苅谷小学校に避難していて、1号機の爆発を目撃した。
 「校庭で炊き出しをして、おにぎりをほおばり、みそ汁を飲んでいるときに、ドーンと爆発しました。苅谷小学校にはまだ1000人以上がいたと思います。」
 避難途中の町民が苅谷小学校から津島に向けて避難を再開したのは、夜に入ってからだった。子供や老人にとっては困難な逃避行となった。
 テレビは報道機関であると同時に、防災インフラでもある。ほとんどの人々がテレビのニュースを頼った。行政も爆発映像を見て行動を開始した。原発からおよそ20キロの位置にある川内村の村長は、「あの映像を見て全村避難を決断した」と語ったという。
 メディアにとっての最大の教訓は、報道の仕方によって、災害の規模が大きくもなり、小さくもなるという点だ。当時、メディアの報道は「大本営発表だ」と非難された。しかし原発事故では、情報を握るのが事業者の東京電力だけであり、直接現場に入って情報を確認する手段は閉ざされている。私の感覚では、「大本営発表」すら満足にできる状況になかったというのが本当のところである。

記者とアナウンサーも悩み苦しんだ

 私が原発取材に加わったのは13日の早朝だ。翌14日午前11時01分に3号機が爆発してからも、危機的な状況が次々に発生した。14日夜には2号機が空焚きになった。15日早朝には2号機で爆発音がしたと発表があった。爆発は4号機だったが、その4号機の使用済み燃料プールの冷却水が干上がるかもしれないと原子力安全・保安院は発表した。
 15日には都内でも高い線量が観測された。当時日本テレビでは「原発班」が組織され、20人近い記者とデスクが取材に携わっていた。幾人かの記者やデスクは、自分自身の不安を口にし始めた。「東京に残っていて大丈夫か」と。
 テレビ局には社外のスタッフもたくさんいる。カメラマンやビデオエンジニアだけでなく、運転手から弁当を手配するアルバイトまで、日々数百人が取材に関わっている。私は解説の傍らスタッフを集め、事故の状況を解説すると同時に、取材上の注意を与えた。若いビデオエンジニアに、「現場の取材に行っても、僕は子供を産めますか?」と質問されたことを、今も鮮明に覚えている。
 ある時、若い女性スタッフがやってきて不安を訴えた。
 「放射能は大丈夫でしょうか?」
 この女性スタッフは妊娠していた。私は線量うんぬんより、女性スタッフが不安を抱えたまま仕事を続けることは困難と考え、離脱するようアドバイスした。
 女性スタッフは涙を流しながら、「皆が一生懸命取材しているのに、私だけ逃げることはできません」と逡巡していた。私は「少しだけ勇気を出して、あなたと子供のために、しばらく休みなさい」と諭した。女性は休暇を取ったが、3日後には出社していた。理由を問うと、「休んでみて、この仕事がいかに大切かよくわかりました」と気丈な姿を見せた。この後も何人かのスタッフから相談を受けた。実際に報道現場を離れた者もいた。
 東京の日本テレビでさえ、スタッフは不安を抱えたまま取材にあたっていた。福島ではさらに厳しい状況に置かれていた。「原発災害、その時テレビは…」によると、3号機爆発のあった14日には、スタッフ数人が「帰宅させてください」と告げてきたという。その時のことを当時報道部長だった小林典子は次のように書いている。
 「FCT幹部は、これ以上事故が拡大する最悪の事態を想定して、本社機能の移転やスタッフの自宅待機などの対応を協議していた。15日午後、寺島専務(当時の専務寺島祐二)が報道制作局の管理職を集めた。
 『これから先は志のあるものしか放送を続けることはできない。家族のことも考え、希望する者には自宅待機を認める』
 部長の一人が聞いた。
 『懲罰は?』
 『ない』
 その夜、報道制作局にいたスタッフを招集し、寺島がその旨を伝えた。」
 原発爆発の第一報を伝えた大橋聡子も離脱した一人だ。大橋は避難区域が広がるたびに、コンパスで地図に描き込んでいった。FCT本社のある郡山も汚染されたらどうなるのかと、不安ばかりが膨らんだ。
 3月14日、大橋が出社して間もなく3号機が爆発した。膨らんだ不安が爆発するように、強烈な感情が噴き出した。大橋はニュースセンターの真ん中で泣き喚いた。上司がなだめても泣きながら反抗した。「落ちついてね」と先輩がマスクを差し出すと、それを見てまた泣き喚いた。大橋は現場を離脱し、家族のいる大阪に帰った。大阪でも福島のことが頭から離れず、ニュースを食い入るように見つめ続けた。
 「自分にも放射能に対する恐ろしさがありましたが、同時に報道機関であり伝えるために戦わなければなりませんでした。家族からも心配する電話があり、パニックになってしまいました。本当に自分を保てなかったことは情けなく、立派な放送人にはなれませんでした。最大の後悔は、原発立地県の放送に関わる者として、意識や覚悟が足りなかったと痛感しています。」
 真剣に取材した記者こそ悩み苦しんだ。福島だけでなく、東北から関東甲信越を含む地域は、とてつもない量の放射能に汚染されたのである。
 大橋はその後福島に戻り、今もニュースキャスターとして活躍する。

「原発爆発」映像が刻んだもの

 1号機、3号機とも爆発したのは原子炉建屋だった。4号機も同様である。しかし建屋が水素爆発するとは誰も想像していなかった。政府事故調の報告書によると、建屋の水素爆発について研究した論文は、世界でわずか2本だけだったという。
 しかし現実に建屋の水素爆発が発生し、大量の放射性物質が環境を汚染した。国会事故調査委員会報告書、政府事故調査委員会報告書、民間事故調査委員会報告書、原子力学会事故調査報告書と、複数の事故調査報告書が発表されたが、「原発爆発」映像をきちんと分析した跡は見られなかった。
 福島第一原発で何が起きたのか、なぜ起きたのか、事故原因の究明は半ばである。原子力規制委員会は事故原因究明の責任を負っているが、「東京電力福島第一原子力発電所における事故の分析に係る検討会」は、2014年7月に中間報告を出して以来、活動を停止している。私は前任の委員長田中俊一や現委員長更田豊志に「なぜ事故原因究明の手を緩めるのか」と何度も質問したが、両人とも「事故原因の究明につながる新たなデータがない」として消極的な態度に終始した。事故原因はおそらく闇に葬られるであろう。
 しかし「原発爆発」映像を含め、多くの映像や画像が残されている。遠い将来、再び映像に光があたり、事故に至る愚かさが白日のもとに示される日が来ることを、私は強く期待する。

(了)

倉澤 治雄
千葉県生まれ、開成高校卒。1977年東京大学教養学部基礎科学科卒、79年フランス国立ボルドー大学大学院修了(物理化学専攻)、80年日本テレビ入社。原発問題、宇宙開発、環境、地下鉄サリン事件、司法、警察、国際問題などを担当。経済部長、政治部長、解説主幹を歴任。著書は「福島原発事故に至る原子力開発史」(中央大学出版部)、「原発ゴミはどこへ行く」(リベルタ出版)、「原発爆発」(高文研)、「テレビジャーナリズムの作法」(花伝社)、「徹底討論 犯罪報道と人権」(現代書館)「原子力船『むつ』 虚構の航跡」(現代書館)ほか