(承前)
 湯河原の天野屋旅館、伊豆長岡の南山荘のような、消えてしまった、あるいは建物だけが廃墟のごとく残された、規模が大きく風格もあった木造の宿はまだまだ全国に残っているが、それらはいつの間にか別のものに変化してしまった環境についていけず、巨体をもてあまして身動きがとれなくなった恐竜かマンモスのようだ。秋田県に秋の宮温泉郷という、杉の森に囲まれた美しい場所がある。しかし、山形新幹線と秋田新幹線のどちらにも遠い交通の不便さや、宣伝をネットに頼らず各温泉が協力して観光キャンペーンをやろうという熱意もなかったことが大きかったか、だんだん翳りが見えてきた。その一つ、丹下健三と並ぶ昭和を代表する建築家白井晟一が設計した四棟の離れのある稲住温泉(画像(1-3))は長廊下がタコ足のように四方に延びているゆったりした平屋建ての造りで、武者小路実篤や佐藤栄作も長期滞在したところである。私は25年間で三度行ったが、初回は仲居さんもいる活気のある宿であった。二回目は部屋の鍵をもらうホテル形式になっていたが、なんと宿泊費1万円ちょっとなのに、以前は一泊2~3万はした白井晟一設計の離れに入れてくれたので喜んだけれど、何か苦しい台所事情は感じ取れた。三回目(2013)のときは、そのタコ足の廊下のそこここに衝立が立っていたり物で塞いでその先は使えないようにしてあったりで、一部は雪のせいか崩れ落ちたまま修理もしないままになっていた。規模縮小のために、自らの足を一本ずつもいでいかざるを得なくなった如くで痛々しかったが、そこまで来ると幕引きは目の前で、ほどなく倒産した話が耳に入ってきた。


画像(1) 秋の宮温泉郷:ありし日の稲住温泉の玄関前

画像(2) 白井晟一設計の離れ

画像(3) 2013年最後の訪問時。もはや未使用の客室棟に続く長廊下の入り口はこんな有り様だった。

 その秋の宮温泉郷にあった湯ノ又温泉(画像(4)(5))は、長廊下に鍵の掛からない部屋が並んでいる昔ながらの湯治宿で、緑に埋もれ、まるで川の岩盤の上に建てられたような自然と一体化した構造がなんとも心地よかったが、こちらも後継者がいないということで、早々と廃業してしまった。元々農閑期の体のオーバーホールや医療の代わりとしての意味のあった湯治だが、医療の進歩、交通の発達などでその文化的機能を失い、こうした旅館の利用者が激減したことも廃業の理由であろう。温泉の治療効果、リハビリ効果を早くから近代医学とも手を携えて利用してきた西洋と日本の湯治のスタイルはまた違った伝統にあったということでもある。


画像(4) 秋の宮温泉郷:廃業した湯治宿湯ノ又温泉

画像(5) いかにも湯治宿らしい湯ノ又温泉の廊下

 こうなると秋の宮温泉「郷」と言っても、それを構成する温泉旅館はもはや一、二箇所になってきてしまい、全体が歯が抜けたように勢いを失っていく。ところが一方で、新幹線が通じた箇所では、皮肉なことに活気を失っていた温泉街やマニア向けの秘湯が思いがけず脚光を浴びるようになる場合もある。田沢湖の奥の乳頭温泉郷には何度か行ったが、その一つ「鶴の湯」に最後に訪れたときは夏だったが、屋台まで出ていて人でごった返し、たくさんある風呂がどれも入るのに順番待ちをしていて、どの浴槽も芋洗いの状態だった。そう、これもまさに「秘湯のテーマパーク」化なのであり、北陸新幹線ができたことにより、金沢の近江町市場に観光客が殺到し「グルメのテーマパーク」と化し、もはや地元民が近づけない場所になってしまったことと似ているのだ。さらには日本人気で水上の宝川温泉や城崎温泉は外国人観光客にとってのテーマパークになっている。
 より情報をたよって来日する外国人の場合は今のところ訪れる場所にかなり偏りがある。そして日本人の場合は、日本全体にそれぞれ固定した客層がいてどこもそれなりに潤っていた時代でとは違い、交通や広告、ネット利用の方法等の条件によって地域や個々の場所での経済効果を生む落差が広がっている。さらには少子高齢化で、中高年層と若年層の間で生活スタイルが大きく変わってきたことも影響しているだろう。

 八甲田山の東山麓にあった田代元湯やまだ館(あの雪中行軍の目的地である)田代元湯(画像(6)-(9))は、私が弘前に住んでいた頃、登山の折に3回行ったが、駐車場から山道を30分ほど歩いてしか行けない温泉だった。冬期は休む古い木造建ての正真正銘のランプの宿で、電気もないから夜は真っ暗、外にある風呂に行くには懐中電灯が必要で、夏にはホタルが乱舞していた。温泉は川沿いの広い林の中に湯小屋、露天風呂など様々の浴槽が点在していて、それらをつなぐ木道や石畳を裸のまま移動するというなんとも野性味たっぷりのスタイルで、全国でもここまでの規模のこういう開放的なタイプの温泉は類を見ないものであった。湯小屋や屋根のある露天にはランプが吊るしてあった。暗い中で湯に浸かっていると、すぐそこに闇の深さが広がっていて、現代とは思えないような神秘的な気配が感じられ、体ごと浄化されるような気分になった。青森市の老夫婦が春から秋にだけやってきて営業していたが、数年後にダムができる話が決まり宿を閉めることとなった。その2年前ぐらいに行ったら、国道から入る道の看板も外していたので(つまり、知っている人しか曲がるところがわからない)、「看板どうしたんですか?」と聞くと、おかみさんが「いや、やる気がなぐなっでしまってさ。あんまりお客さん来でもらっても困るさはんで」と言っていた。知られず、目立たず、慎ましく、奢らず・・・長い歴史のある温泉だけれど、大声で「長年のご愛顧に感謝します」と言うわけでもなく静かに消えて行った一つの温泉。野の花ではないが、何か今日の日本では少なくなった清々しい心ばえの人に出遭ったような気になった。東京に移ってから数年後に気になって訪れてみたら、草は茫々、建物は朽ちていたが、風呂のあった場所からお湯は流れていた。その後ダム建設はどうなったのだろうか?


画像(6) 田代元湯岩の露天風呂 つり橋を渡ると到着。今はこのつり橋も崩壊して渡れないそうだ。

画像(7) 湯小屋と木の露天風呂

画像(8) 湯小屋の中の浴槽

画像(9)崩壊した湯小屋。手前の水の溜まっているところが浴槽だったと思われる。

 同じ八甲田山の反対側にある青荷温泉は「ランプの秘湯」というキャッチフレーズ(実は本当の秘湯は田代元湯の方なのだが)を掲げ、館外にも館内にも津軽弁の看板を掛けて濃い郷土色を演出して早くから旅行会社のパンフレットにも載り、マスコミやTVにも取り上げられ人気の全国区の温泉となり、今はネットにも盛んに登場する。
 八甲田山の東と西にあったこの二つの一軒宿のたどった正反対の経緯・・・商売をしている以上機を見て時流に乗ることも必要ではあるが、田代元湯の場合はダム建設ということが大きな引き金になったのだとはいえ、新たな時代の快適さの基準へと合わせる気もなかったこの宿は、もしかして旧時代と共に消えていく潮時だったのだろう。それを惜しむのはむしろこちらの方で、宿主の方は潔く時代の変転を受け容れていたのかもしれない。
 あるいはまた、家業を伝承してきだだけで、新時代に向け踏み出そうとはしない受け身の人により厳しい裁断を下すのが運命の酷い悪戯というものなのだろうか?土砂崩れで流された八幡平の澄川、銭川温泉。岩手宮城内陸地震で川に水没した栗駒山麓のこれも歩いてしか行けなかった湯の倉温泉(画像(10)-(11))。いずれも東北にしかないフォークロアとしての温泉文化を守り続けている得難い場所だった。長い時を経た木造茅葺き屋根の建築三棟、東屋、中屋、西屋が並ぶ山形の白布温泉(画像(12)-(13))の圧巻の眺めも、東屋と中屋が火事で全焼したことで失われた。残っていれば確実に文化財に指定されていた重厚な建築物であった。再建した東屋にも行ってみたが、それこそ麹菌が逃げてしまった酒蔵のようなもので、昔日のアウラを蘇らせることはできないのであった。再度茅葺きでの再建も考えたが、今日では消防法の壁が妨げになったそうだ。


画像(10) 岩手宮城内陸地震の前の湯の倉温泉湯栄館。右奥に露天風呂。ここもランプの宿だった。

画像(11) 地震後に水没した湯栄館

画像(12) 全焼する前の白布温泉中屋(手前)と東屋(奥)。残っていれば確実に文化財指定になっていたことだろう。

画像(13) 看板だけが残り、跡形もなく消えてしまった中屋。左が新築した東屋で右が一軒だけ焼け残った西屋

 さて、山形新幹線が延びたことによって新庄近辺でも対照的な状況に置かれている二つの温泉がある。さきほどの乳頭温泉の「鶴の湯」の場合に似て、「おしん」の舞台にもなった鄙びた木造宿の並ぶ銀山温泉では状況が一変し、鄙びた温泉街が世界的観光地になるようなことが起こっている。昨年山形駅に行くことがあったが、案内所に銀山温泉のパンフレットが多国語でずらっと並んでいるのを見て、現状がどうなっているかが想像できた。私が初めて行ったときは閑散としていて、当時は一泊7000円ぐらいで泊まれた宿が今や2万円もとるようになっていて、温泉街は夜まで老若男女で溢れていて、同じ場所とは思えないほどだった。それが5、6年前のことだから、今はさらに外国人も加わりさぞかし賑わいを見せていることだろう。潤うから古い旅館もその利益でアメニティを今風に整えるとさらに人気の観光地になるという好循環が生まれる。不思議なもので古風な建物が並ぶ温泉街もそうなると、映画のセットのように見えてきてまさにテーマパークという呼び方が当てはまる。バイエルンのノイシュヴァンシュタイン城を見た人が「ディズニーランドみたい!」と言ったという話を思い出すが、こうなると本物がコピーのように見えてしまうのである。
 同じく新庄から程近いはずなのに、厳しい状況に立たされているのが、瀬見温泉にある喜(き)至楼(しろう)という明治期に建てられた木造三階建ての堂々たる旅館である。「レトロ」な木造が「普通」であった頃に生まれたこちらとしては、老朽化してはいても磨きぬかれたものの美しさや味わいは堪らないものがある。玄関脇の「さあ、どうぞこちらへ」という意味の板木の人形や障子の格子模様や浴衣の「せ」が三つ(瀬見)に「キが四つにロ」(きしろう)という歌舞伎の手ぬぐいのような遊び心も楽しい。(画像(14)-(16))しかし一方で私はこういった細工を見ると、自分がドイツのことを研究していることもあってか、現代のドイツでもマイスター制度が崩壊の危機に晒されていることを連想する。グローバル化とEUによる市場の拡大は、長く時間をかけていい製品を生み出す伝統の職人技や手仕事の世界が、効率性の追求やイノベーションによって安価なものを短いスパンで消費していく変貌した価値観と大企業の原理に駆逐されていく状況を加速させる。EUで指導的な位置にあるはずのドイツが、自らの伝統の精神そのものであるようなマイスター制度が参入規制であるとしてEUから批判を浴びるという矛盾する現状を見ると、国家が積極的にマイスター制度や伝統的な頑固な職人気質を守ってきたドイツのような国であっても厳しい状況は変わらないのだと感じずにはいられない。喜至楼の場合でも、こちらが粋と感じるような建築の細部に見られる遊び心は、作り手と享受者の間に効率第一ではない価値観、世界観の安定した共有があった頃の余裕から生じてくるものであったのだ。密閉された建物と無菌状態が当たり前のこれからの世代はそんな建築の細部などより、すきま風で暖房が効かなくなることの方が大事なことであるのは致し方ないことである。北国であることも分が悪い。大きな構えはかつては威風や格式に繋がったが、今日では、寒暖の管理のしにくい困った代物で、管理ができないとだんだん寂れ感が出てきて客足も遠のいてくるのは、銀山温泉の場合の好循環と対照的である。この宿も動きにくくなった巨体をもてあましている宿なのである。宿の娘さんに「長い目で見たら文化財指定を受けたらどうですか?補助金も出ますよね」と言ってみたら「基準がうるさく、まず申請前のリフォームでお金がかかるんですよ」と笑いながらも諦めたような口ぶりだった。


画像(14) 瀬見温泉喜至楼の堂々たる外観

画像(15) 玄関脇の歓迎の木板の人形

画像(16) 障子の格子模様の遊び

 そんなノスタルジーなどさっさと捨ててしまわないと新しい時代についていけないぞと一蹴する向きもあるだろう。しかし、もしかしたら、こういう感覚は、時代の大きな転換期により強く抱くものでないかと思ったりもする。明治の文明開化期、西洋人ラフカディオ・ハーンの東京という都市の急速な近代化と松江という地方の一都市に「残る」古き日本への景観や風習への郷愁の間で揺れる心情は、確実に滅びゆくものとしての『美しき日本の残像』(1993 新潮社)を透かして日本の現在を斬って見せるアレックス・カーの心情に重なるものではないだろうか。すでに、近代のとば口で文豪ゲーテは手紙の中でこんなことを書いている。

 「親愛なる友よ、しかし今ではすべてのものが過度であり、すべてのものが思考においても行動においてもとどめがたく度を越えようとする。誰も自分自身のことが見えないし、自分がそのなかで漂い動いているエレメントと、自分が加工する素材を誰も理解していない。(・・・)豊かさと速さは、世の人々が賛嘆し、誰もが追い求めるものになっている。鉄道、急行郵便、蒸気船、そしてありとあらゆる便利な伝達の道具こそ、教養ある世の人々がめざしているものだ。(・・・)私たちは、できる限り、はぐくんできた信念を持ち続けようではないか。私たちは、ひょっとするとまだいるかもしれぬ少数の人々とともに、すぐには戻ってこないある時代に属する最後の人間になることだろう。」(1825年6月6日ツェルターへの手紙)

 「鉄道、急行郵便、蒸気船」を「リニア、e-mail、飛行機」に置き換えれば、まるでいまの世界に向かって言われていることばのようではないか!そして早々と近代に背を向けて夢想の世界に逃げこんだかに見えるドイツ・ロマン派の人たちが現実を見ない後ろ向きの反動主義者と批判されたことに対し、ベンヤミンはそうした夢想はむしろ現実批判のための無限の反省Reflexionという意識の運動のための基底となる想像力なのだとしてロマン派を再評価した。そのベンヤミンはまた、コピーの蔓延した世界で芸術作品のもつ一回的アウラAuraの喪失を指摘した。ここは芸術作品の話をしているのではないが、ベンヤミンは同時に歴史の挟間に取り残され滅びつつある物の潜在的可能性にも目を向けている。フリードリッヒ、ターナーを始め、ロマン派の画家たちが好んで廃墟を題材にしたことも思い浮かぶ。
 喜至楼をはじめとした日本各地に依然残る木造宿について語るのに、廃墟を引き合いに出しては失礼かもしれない。何しろそれらの宿は現役で何とか現状を切り開こうとしているのだから。しかし、私がこんな話をしてきたのは、ただの懐古趣味からではないし、ましてや、かつての不便な時代はよかった、現代は我慢や辛抱というものを知らな過ぎるなどという古臭い教訓的なことを垂れようというつもりでもないし、快適で便利な設備に事欠かない現代の建築方法を否定するわけでもない。ここで主題とした「木造旅館」は言わば一種の比喩、過去の遺物ではなく、我々が生きている現在を考えるうえでの、思考を、想像力を喚起するための手がかりなのだ。
 温泉旅館というテーマで、何が消え何が残ったかということを考えているうちに、同時に現在において何が流行っていてこれからどうなるかと考える前に、消えていったものをきちんと追悼しなければならない気持ちになってしまった。特に東北の話に特化しようと考えていたわけではないが、自分がかつて住んでいた東北への記憶と、二回見に行った被災地の記憶が重なり、消え去っていったものをこの機会に追悼しておきたいという気持ちになったのだと感じる。
 現在の奔流の中でも、貴重であると思える過去を手放さないこと、そしてそれをかすかな未来の可能性のための起点とすること。それを信条としてもう一度掲げておきたい。
 私には瀬見温泉の喜至楼のような旅館はもはや時代から取り残されてしまったが、なおも淡い光をかすかに放ちつつ現代の日本のエアポケットで静かに息をしている生き物のように思えてならず、愛着の気持ちを抑えがたい。

 頑張れキシロー、そして日本の木造旅館たち!(了)

木下直也
東京都杉並区生まれ。都立富士高校卒。東京大学大学院人文科学研究科独語独文学専攻博士課程満期退学。弘前大学助教授を経て、成城大学教授(現職)。東京大学、東京工業大学、東京芸術大学、埼玉大学、東京女子大学、青山学院大学などで兼任講師。専門分野はカフカを中心としたドイツ近現代文学、古典派~ロマン派の音楽。論文に「Die Polarität des Nichts -eine Betrachtung über Kafkas Welt- und Selbsterkenntnis」「カフカ再読のための試論(1)-解釈の不可能性と言語にとって不可能なもの」「同(2)-否定性・外部・パースペクティヴ」「盲目と相似-ペーター・ハントケの『洪水』Die Überschwemmungと『言葉の縁』Der Rand der Wörterについて」「近現代ドイツ文学における動物という問題圏-ハイデガー、リルケ、ニーチェ」「フランツ・シューベルトの後期作品の表現特性について-表現と形式」「声・反復・死-シューベルトの後期ピアノ・ソナタ」他。共訳にヴォルフガング・イーザー『虚構と想像力-文学の人間学』。