こういうことを投稿すると、ブログとかだと確実に炎上する話です。純粋に科学的な考察です。

思い起こせば、小さい頃から良く美人にモテました。

奥手で身体も弱く小さく、すぐに熱を出してほぼ毎月病院に通っていた私です。小学校高学年になると病院通いは減りました。下手でしたがスポーツは好きでした。成績だけは勉強しなくても良かった。大体100点で中学まで常に学年でトップでした。高校は今でも東大進学率が1番で、高校に入って学年で普通レベルになって、なんだか楽になったのを良く覚えています。
私が小学校の時、母の妹がまだ大学生で、福岡の実家から東京に出て来ると必ず家に泊まっていました。当時はホテルなんて無かったので、福岡にいる両親の親戚連中は唯一東京に出てきた両親の家に泊まっていたのです。母の弟は長男で国会に勤めていたけど、アルバイトに来ていた娘と結婚して大宮に住んでいたので羽田からは遠かったのです。大宮にはそのおばさんの実家がありました。
で、その母の妹は、家に来るたびに私のことをチェックするのです。なんだかんだと。私は「怒るおばちゃんまた来るの?」のと恐れていました。彼女は若くして逝ってしまいましたが、今から思えば美貌の知識人でした。大学出ると裁判所に勤め、数々の派手な恋愛をし、大概な事には驚かないおばあちゃんも呆れていたようです。
その後、京大卒の新日鐵の若手エリートと恋に落ち、サッサと結婚して家庭を持ちました。そのエリートは新日鐵で最速で工場長になりました。母の親戚一族よりも親切で気前良く、ケチだった母の一族ではありえない事なんですが、我が家に泊まる時は必ず私の好きなプラモデルをお土産にしてました。そのおじさんが来るのを楽しみにしてた。で、その母の妹が家に来た時に私のテストの結果をチェックして言ったのです。「なんだ、まさお君ダメね。私の家庭教師の子は満点だったよ」って。常日頃、「君は勉強ができる」と言われて、へーそうなんだと思っていた私には新鮮な体験でした。

小学校は上原小学校という家から5分くらいのところに通いました。5、6年は2クラスしか無く、クラスの同級生は皆仲良しでした。特に仲が良かった2人は同じアパートに住んでいて、良く夕飯前までそこに入り浸っていました。アパートは何軒か並んで立っていてその間には大きな駐車スペースと私道があり、遊ぶのには好都合だったからです。隣のアパートには同じクラスの女の子が2、3人いて、皆頭が良くて可愛いかった。特に大人しかった1人は今から思えば絶世の美人で、クラスの悪ガキ連中のちょっかいの的でした。彼女は傷ついてお母さんにいって先生がクラスを集めて皆に言ったものです。
「皆なんで川口さんが悲しむことやるのかな?考えてみよう」って。これってイジメの典型例ですね。で、隣のアパートには隣のクラスの男の子がいました。山地君と言って後に日本航空に政府が社長として送りこんだ山地さんの息子さんでした。そう、そこは日本政府の若手エリート官僚が集結する公務員住宅だったのです。他にもNHK交響楽団の指揮者の娘が同級生にいてその娘の家にも行きました。とにかくエリート官僚のアパート以外は超豪邸が多く、古賀政男、堺正章、ペギー葉山とかが住んでいた。そんなところで私は育ちました。もちろん当時私はそんな事は微塵も知らなかったです。

で、ようやく美人に良くモテる話です。

小学校5、6年くらいになると、女の子の方が早熟で先に大人になっていきますよね。私は奥手でクラスで2番目に小さかったです。彼女達は良く先生とそれに絡む話をしていたようです。その中でも1番身体が大きく、健康優良児で今から思えば綺麗で聡明な子が私にコソっと言ったのです。「ねえ、春の目覚めって知ってる〜」って。奥手な私には「何それ?」と言って野球の輪に走って行きました。その頃から兆候がありました。

中学は上原中学という歩いて10分くらいのところに通いました。中学3年になって初めて女の子と付き合いました。中学校は上原小学校と富ヶ谷小学校から上がってきた子供たちで構成されていました。当然、同じ上原小学校から来た子達とは男も女も仲が良かったですが、徐々に富ヶ谷小学校の男の子達とも仲良くなっていました。相変わらず学年で2番目に小さかったです。
3年になって、初めてクラスが一緒になった時、それまで喋ったこともない富ヶ谷小学校の大柄で聡明な娘から猛アタックを受けたんです。最初は図画工作でいきなり私の絵を描いて見せてくれた事から始まります。「なんだコイツ?」と最初は思っていましたが、友達になり、一緒に遊び、彼女にとってはデートを重ねるうちに気づきました。私もその頃もう下半身は機能していたので。あ、コイツ俺に気があるなって。彼女の家に行って、早熟だった彼女は性の事を色々と教えてくれました。多分私はオチンチンを大きくして聞いていたと思います。交換日記とかもしました。彼女はマフラーを編んでくれたり、志望校を都立戸山高校に合わせてくれたり、椎名誠を教えてくれたり。盛田容子さん。そう彼女も勉強ができた。結局私は国立高校に行って疎遠になりましたけど。

上原中学校

高校時代は男子校だったので、大した事は起きませんでした。隣の都立駒場高校には、小中学一緒だった小川優子さんという、はたまた美人で聡明な子が進学しており、お互い上原から歩いて通っていたので頻繁に話してました。彼女は高校でマドンナ的な存在になっているようで、学園祭を見に行った際にも映画の主演女優やってました。私たちの男子校学園祭でもスライドによるムービーみたいなのが流行っていて、女性キャラが必要なので小川さんに出演してもらいました。大学で彼女は慶應に行ったのですが、たまに会って色々と話してました。そんな事を中学時代の親友の目黒君に話したところ言われました。「お前らさ、付き合ったら良いんじやね?」私はハッとしました。美人で聡明な人と自分は気が合うんだって。

その辺りから、つまり18才くらいからは確信しました。背も172cmくらいになっており、コンプレックスも消滅していたので。初めての合コンで日本女子大の娘達と会った時も、きれいで頭の良い娘から私の似顔絵付きで即ラブレターが来ました。1年くらい付き合ったかな。家庭教師をしていた都立青山高校のきれいで頭の良い娘からは、彼女が大学に入ってから誘いがきました。彼女の同級生の東大生を教えるという名目で私を誘い出し、その彼は会って直ぐに姿を消して私たちは飲みに行きました。上手くやられました。夜遅くなって彼女を家に送る途中です。いきなり彼女はハーハー生臭い息を吐いて私に抱きついてきました。彼女は20才くらいだったので、性欲がピークに達していたのでしょう。しばらくすると落ち着きましたが、性欲が抑えきれ無かったんでしょう。

その頃に家内と出会いました。日本女子大とテニスの同好会をやっていたのです。そこでも結構きれいで聡明な娘に人気がありました。家内は可愛いなと思っていたのですが、女性からアプローチするものと思っていた私はあまり気にしていませんでした。ある時思いついて電話しました。自分からアプローチしたのは家内が初めてでした。「君誰かつきあっている人いる?いてもその人じゃないといけない理由はないよね。」我ながら回りくどい言い方です。家内は電話口で黙ったままでした。家内も私が好きだったようです。

大学院時代の合コンでは、韓国人のきれいな娘が2次会で席をかき分けて私の隣を陣取りました。外国人は強引です。研究室で寝泊まりしていると言ったのに家に頻繁に電話かけて私は家族からクレームを受けました。飲みに行くとキスしたり、胸や耳を触らせたりやりたい放題。もうセックスしてるも同然です。彼女にはちょっと厳しい仕打ちをして別れたなと少し後悔してます。

そして社会人1年目、我孫子の工場に配属された私は現地採用の20才の娘達の中にいました。工場全体の人事主催の新人飲み会の帰り道、やはり1番美人の娘が私の腕にいきなりしがみついてきました。20才くらいの女性の反応には慣れていたので、落ち着かせて、その後都内までチョクチョクデートに行きました。仕事してる時もテニス部で一緒になった全く違う事業部の娘から電話がかかってきました。プレゼントも貰ったな。

こういう嵐のような時代は25歳くらいでようやく落ち着きを取り戻します。会う人も男女ともに、皆家庭を持つようになりました。

猿群れ昼寝

結局、人間は動物なんだと思います。メスはその繁殖期において自分の遺伝子に最適な相手が本能的に分かるんだと思います。オスは良く分かりません。自分がオスなので。でも一つ言えるのは、私は生殖能力には長けています。こどもを作ろうとしたら、2人の子供ともに家内は一回で妊娠しました。メスはその能力み見極めることができるようです。

ここまで書いてきてふと思いました。

どんな動物もオスが誘うものと考えていましたが、霊長類は逆ではないかと。猿は一頭のオスがいて複数のメスと群れを作ります。人間でも人種によってはハーレムという群れを作って同じです。日本でも昔は2号さんとか妾というシステムで一夫多妻制だった。つまり、先にメスの発情、つまり誘いがあって、それに対してオスが反応するんじゃないかと。それが自然じゃないかという事です。

所詮、人間は動物という話でした。