日本で1960年代後半をティーンエイジャーとして過ごしたものにとって毛沢東は騒がしく、活力に満ちた当時を思い起こさせるアイコンのひとつだ。ファッションの一部ともいえる受け止めは当時の中国の人たちにとっての毛沢東のものとは全く違う軽さだろう。

上海ガニを食う会に参加することを主な目的とした2019年秋の上海行、カメラを片手に歩くうち”毛沢東”に三度出会った。

一度目の出会いは田子坊という若者に人気のある繁華な地区だった。そこはあみだくじのように不規則に交差する幅2~3メートルの路地に間口の狭い店がびっしりと並んでいる。食い物屋もあればおしゃれなブティックや化粧品店があり、バーがあり土産物屋もある。そのうちの1軒に兵馬俑をかたどったチェス盤やマージャンパイに囲まれて「毛主席語録」があった。もう長くそこに置かれたままとなっているのかカバーのビニールがくすみ、毛沢東の肖像も色がさえない。人気商品ではなさそうだ。

麻雀牌と毛沢東

二度目に出会ったのは「上海市希望工程弁公室」という共産主義青年団の活動を後押しする目的で教師を養成するなど教育事業を手掛けている機関の入り口だった。こちらは習近平現国家主席と並んでの”正規”の掲示だ。ただ、規模は小さく迫力に乏しい。

習近平と毛沢東

そして、三度目は高級西洋骨董店の店頭だった。入り口中央に悠然と椅子に座って正面を見据えるほぼ等身大のブロンズ像。その首には深紅のスカーフがまかれている。表情に気品があり、にわか作りのイミテーションには見えない。店内を見渡すと家具や調度品、絵画などどれもヨーロッパから持ち込んだもののようだ。その中に座る毛沢東像。これは売り物なのか、それとも客寄せのための”きわもの”なのか。売り物とすると買い手はこの街の富裕層か。であればその役割は、人民の糾弾からの免罪符なのか、現権力から身を守るための用心棒なのか。いずれにしてもその効果は怪しいが、異彩を放つその姿に想像は膨らむ。

今でも天安門の正面に巨大な肖像が掲げられている北京に比べ、上海での毛沢東の扱いは軽いように見える。あの世の本人は不本意かもしれないが、この街の軽い毛沢東は悪くない。

藪田正弘
フォト・ジャーナリスト 1952年、神戸市生まれ。1975年、関西学院大学経済学部卒、読売テレビ(大阪)入社。記者として警察・内政など記者クラブを担当。ディレクターとしてドキュメント番組(NNNドキュメント’83〜’86など)、プロデューサーとして報道番組(ウェークアップなど)を制作。報道局次長、コンプライアンス推進室長を歴任、2013年からBPO(放送倫理・番組向上機構)放送人権委員会調査役、青少年委員会統括調査役などを歴任。2018年フリーに。