がん患者が見た築地市場
東京都中央卸売市場築地市場(中央区)は10月、80年以上もの長い歴史に幕を閉じ、豊洲(江東区)に移転します。世界最大級の水産物取扱高を誇る築地市場は東京都民の台所という役割にとどまらず、国内外から多くの観光客を引き付ける有数の観光スポットでもありました。そして、市場前の道路を挟んで向かい側にそびえ立つ日本のがん治療・研究拠点の国立がん研究センター中央病院で治療する患者にとっても、元気をもらえる場所でした。
政治家・故与謝野馨氏が見た風景
晩年がんであることを公表した政治家の故与謝野馨(2017年没)の最後の著作「全身がん政治家」(文藝春秋)は、同病院から見た風景で始まります。
「これで何度目の入院になるのか。国立がん研究センター中央病院の十八階にある個室のベッドに横たわり、ぼんやり窓の外を眺めた。隅田川を挟んだ向こうには勝どきの街並み、眼下には活気あふれる築地市場が広がり、場内で忙しなく働く人の姿は、パジャマ姿の私にいつも元気をくれた」
院内で与謝野氏を何度か見かけていた私は、同じがんを患う患者として、同氏の動向を気にしていました。そして、その本を読んでから「与謝野氏にとっても、築地市場は力をもらう場だったのだ」と、親近感を抱くようになりました。
国立がん研究センター中央病院から見える築地市場
同氏が入院していたのは入院病棟の最上階にある特別個室病棟。その下に続く一般病棟からも、築地市場を見渡せます。一番良く見えるのは、各病棟にある非常階段付近の大きな窓です。
私は入院するたびに、そこから築地市場を眺めました。そして、そこから外を眺める何人もの患者を見かけました。昼も、消灯時間を過ぎた夜も、そして夜明け前も。
未明、街全体がまだ寝静まっている時間に市場は動き出します。場内に灯される照明により、暗闇に浮かび上がるように見える市場。その中に吸い込まれるように入っていく何台ものトラックや場内を行き来する「ターレー」と呼ばれる運搬車。夜が明けると場内外には観光客が訪れ出し、午前は多くの人でごった返します。
病院から見える、その躍動感あふれる市場は「死」を身近に感じざるを得ない患者にとって、まさに「生(せい)」そのものでした。
「いるか分教室」の子どもたちが見た風景
では、同病院で治療をする子どもたちは築地市場をどう見ていたのでしょうか。
院内には、入院治療する子どもたちが学ぶ教室があります。都立墨東特別支援学校の「いるか分教室」です。同教室は1998年に設立。全国から来る小学校から高校までの子どもたちが、ここで学びます。入院が1カ月以上と長期間に及ぶ子どもは、通っている地元の学校から学籍を一旦ここに移して、学んでいます。
いるか分教室で学ぶ生徒たちは数年に1度、総合学習の一環で、築地市場を見学してきました。生徒たちが最後に行ったのは2016年秋。院外に出て感染症にかかる心配があるため外出許可が下りない生徒、当日体調を崩して行けなかった生徒もいましたが、約15人の生徒のうち小学生2人中学生2人の計4人が見学できたといいます。
見学に行けない生徒たちも築地市場について学べるよう、インターネットや資料を用いて、「事前学習」をしました。その中で、生徒たちは「鮮魚だけでなく、青果も扱う」「場内には業者の人だけでなく、観光客も入れる」など築地市場の特徴を学び、「昔は列車が通っていた」など歴史も調べました。
見学当日、教室にいた生徒は、仲卸の担当者がホタテ貝をさばく様子を「iPad」で中継した動画で見たそうです。同行した同校の主幹教諭は、「市場の人たちはがん治療を頑張っている子供たちに、できることは何でもしてくれました」と振り返ります。仲卸の担当者は、さばいたばかりのホタテ貝を教室に持ってきてくれ、生徒たちはそれをホットプレートで焼いて楽しみました。
残念ながら、その新鮮なホタテ貝も医師の許可が下りないため食べられない生徒がいました。が、食べられない生徒たちも、「みんなのために焼いてあげる」と張り切っていたそうです。
全国各地の小学生・中学生たちは授業の一環で地元について学びます。たまたま、病気治療によりそれが叶わない生徒たちも、病院がある地域について、学ぶことができていたのです。「せっかく築地にいるのだから、築地について学ぼう」。その代表的な場所が市場でした。教諭は言います。
「子どもたちにとっての一番の願いは、自分の家、自分の学校、自分の地域に戻ること。つまり、がん研究センターを出ることです。ですので、私たち教師も『戻ったときのために頑張ろう』と生徒を励ましています。子どもたちは築地には特別な思いはないかもしれませんが、市場は子どもたちが限られた環境の中でも学べる場でした」
築地市場は10月6日、多くの人に惜しまれながら閉場します。
医療ジャーナリスト。札幌市生まれ、ウエスタンミシガン大卒。1992年、北海道新聞社入社。室蘭報道部、本社生活部などを経て、2001年東京支社社会部。厚生労働省を担当し、医療・社会保障問題を取材する。2004年、がん治療と出産・育児の両立のため退社。再々発したがんや2つの血液の難病を克服し、現在はフリーランスで医療問題を中心に取材・執筆している。著書に「がんと生き、母になる 死産を受け止めて」(まりん書房)