写真家 小柴一良さんと山形を訪ねる~土門拳、羽黒山、酒蔵「鯉川酒蔵」~
今年1月下旬、小柴一良さんとともに山形を訪ねる機会を得た。小柴さんは昨年、日本の写真に関する賞で最も権威があるものひとつ、第44回土門拳賞を受賞した写真家である。受賞作品は「水俣物語 MINAMATA STORY 1971~2024」。酒田市の土門拳写真美術館ではその小柴さんの受賞記念作品展が開催中であった。

土門拳はご存じのとおり日本を代表する写真家である。1909年に酒田で生まれた。初期の代表作は「ヒロシマ」「筑豊の子どもたち」など社会派ドキュメンタリー写真の金字塔とされる作品である。それらは原爆症の治療を受ける人や廃墟の痕跡、また斜陽の時期を迎えた筑豊の貧困の中に生きる子どもたちの姿を生々しく描き出したものだった。「絶対非演出の絶対スナップ」という彼の写真理念は当時の写真家たちに大きな影響を与えたのみならず、作品の発するメッセージは陽の当たらなかった事実を浮かび上がらせ、問題のありどころを社会に告げた。
1960年、土門は脳溢血で倒れ、これを機に大きく作風を変えたようにみえる。(ただ、土門本人は病気が原因で作風が変わったと言われることに強く反発したという。「ぼくの写真は病気で変わったのではない。ぼくは最初から日本の現実を撮ろうとしてきただけだ」という言葉が残されている) その結果生まれたのが「古寺巡礼」であり「女人高野室生寺」だ。動かない仏像や寺社と向き合った静謐な作品群である。
小柴さんが土門と出会うのは、その制作時期である。小柴さんは1972年大阪の写真事務所に入所し写真家としての道を歩み始めるが、その第一歩が土門の撮影アシスタントだった。駆け出しの小柴さんには直接撮影の助手を務めることは許されず、現場までの送り迎えの車の運転や機材の運搬などが主な仕事だったという。
雲の上の存在土門拳の名前を冠する写真美術館での小柴さんの作品展「水俣物語」は賞を受けた同名の写真集からの約50カットで構成された。多くの写真が水俣病の患者やその家族の日常的な姿を捉えたものだ。1971年から2024年まで半世紀以上にわたって撮りためた膨大な数のカットの中から厳選された一枚一枚だ。

水俣病に関する写真というと患者や支援者が「怨」の文字を染め抜いたむしろ旗を掲げて加害者であるチッソや国と激しくやり合う姿や伝説的な写真家ユージン・スミスが撮った構図の整った神々しくもある写真が思い浮かぶ。しかし、小柴さんの作品はドラマチックなシーンを切り取ったものでもなければ、様式的な美しさを追求したものでもない。被写体となった人々は自宅や施設、病院などごく普通の生活の場で自然な表情で捉えられている。1970年代の若々しい姿と40数年後に撮影された同じ人物の肖像が並べられているページも多く、過ぎていった時間の重さを見るものに突きつける。
いずれの写真も撮影者の存在は感じられず、被写体に違和感を覚えさせることがないまでに小柴さんがその場に溶け込んでいることを示している。また、すべての作品はモノクロでプリントされているが、陰影が繊細に表現され、押さえられた諧調が水俣の空気を伝えている。
この作品は激しい感情やハッとする美しさを追い求めたものではない。この場所でこのような出来事があり、人々がそこで半世紀以上にわたって存在してきたことを静かに語っている。

土門拳写真美術館を訪れた後、羽黒山頂に向かった。今回の旅のスケジュールは小柴さんのプランだ。この冬は雪が多く、この日も朝から降り続いていた。荒れた天候のなか羽黒山頂に行くことなど私には考えも及ばない。予定の変更をそれとなく求めたが、小柴さんは頑としてプランを変えない。
羽黒山頂には鶴岡駅から乗り合いバスで向かう。山頂までの道路は完全に雪に埋もれ地肌は全く見えない。そこを地元の運転手が慎重にバスを走らせ、よろよろと登っていく。山頂の積雪は1メートル半ぐらいであろうか、気温はもちろん氷点下。出羽三山神社の手水鉢には氷柱がさがり、とても手を浸けられない。
林立する樹齢数百年と思われる杉の大木には、雪が貼りついて美しい。特に、太い幹に蔦が網の目のように絡みついている一本に目を奪われた。雪が蔦の一本一本を際立たせ、血管のようにも見える。厳しい環境にさらされながらも生き続ける生命の強さそのものである。
小柴さんはこの時期にこの場所に来なければ見ることが出来ないものを私に見せようとしたのだろうか。また、写真を撮るためには現場に身を置かなければならないことを言いたかったのかもしれない。

その夜は庄内町余目の旅館に泊まり、地元の酒「鯉川」を酌み交わした。翌日はその蔵元を訪ねる予定だ。酒の力もあってか小柴さんから率直な本音が聞けた。
「水俣物語」に関しては、ある一枚の写真について、強い抗議を受けた経緯をぽつりぽつりと語りはじめた。その写真は取材対象となった人物から承諾を得て撮影したが、写真集として出版した後、対象となった人の支援者やきょうだいから無断撮影したものだと写真集からの削除を申し立てられた。対象者本人は出版の前年に亡くなり、後見役だった母親も認知症が進んでいたため出版の段階では誰にも許諾を求めなかったことが悔やまれると小柴さんは語った。何度も協議を重ねた結果、再版されるときには当該の写真を省くこととなったという。
ドキュメンタリー写真は被写体との関係から逃れることはできない。もちろん撮影される側の人権やプライバシーは侵されてはならない。一方ドキュメンタリー写真は一瞬のシャッターチャンスを逃さないことが生命だ。事前に被写体の承諾を得ることは難しい。公開する段階で出来る限り被写体となった人の意向を確認するが100%とはいかない。新聞社やテレビ局など組織に属さない小柴さんにとって、何十年も前に撮影した写真の許諾を得るための努力には限りがある。さらに被写体側からの抗議は精神的に負担が重く、打ちひしがれた気分に陥ることもあると暗い表情を浮かべる。
ドキュメンタリー写真は写真が最もその機能を発揮できる分野で、発明以来時代を映す名作が生み出されてきた。ときに戦争をやめさせる契機をつくったり、深刻な問題を世に知らしめ社会にインパクトを与え、改善の方向に導く役割も果たしてきた。
小柴さんは今後ますますこの分野の写真は撮りづらくなるだろうと悲観的だ。ドキュメンタリー写真を衰退に追い込んでいるのは公権力の圧力ではなく、ドキュメンタリー写真を撮るものが心を寄せる社会的に弱い側の人たちからの抗議の声であるのはなんとも残念である。

一転、話題が土門拳のアシスタント時代に移ると目が輝く。有名な写真集「女人高野室生寺」に結実する写真を撮るため室生寺を訪れた土門を背に負ぶって長くて急な境内の石階段を上がったのは小柴さんである。土門は身長165センチぐらいで決して大柄ではなかったがずしりと持ち重みがしたという。50年以上前のその感覚は今でも背中に残っているそうだ。
有名人の土門が何人もの助手を従え、大型カメラを三脚に据えて行う撮影は物珍しく、大勢の参拝者らに取り囲まれることも多かった。土門が被写体をにらみ「やぁー」と声をかけシャッターが切られると、小さな喝采が起こったという。
また、小柴さんが直接目撃したわけではないが、アシスタントとなる以前の1960年代前半には助手が持つ機材袋の中にはのこぎりが常備されていたという。邪魔になる木の枝などを掃うためである。その時代、寺の関係者も黙認だった。
小柴さんは自分の写真について土門から直接教えられたことはない。しかし、土門が撮影するすぐ近くにいて、同じ空気を吸うことが出来たことは、間違いなく自らの写真に反映しているという。

翌朝訪ねた鯉川酒造は、ちょうど仕込みの最盛期であった。特別に麹室(こうじむろ)に入ることを許され、蒸した米と麹を混ぜる「とこもみ」という作業を見せてもらった。この作業は麹菌を米全体に均一に行き渡らせる工程で、温度が1、2度違うだけで酒の味が変わってしまうという。杜氏には経験と繊細さが求められる。米をほぐしていく杜氏の手元は柔らかく肌も艶やかであった。

酒蔵には神棚がいくつもあり、丁寧に捧げものが祀られている。酒造りは人と自然との共同作業という。人のする技が完璧であっても完璧な酒が出来上がるとは限らない。人の力が及ばない何かに酒の出来は左右されるという。ここでの神は宗教的な観念ではなく、人と自然との接点に確かにあるものだ。
小柴さんに導かれた山形への旅は、彼の自然観を教えられるものとなった。冬はあくまで寒く厳しく美しい。美味いものは自然から授けられる。近代文明の負の部分を象徴する水俣病事件に半世紀以上にわたって関わってきた小柴さんを根底で支えたのはそのような考えだったのだろうか。
なお、小柴さんの「水俣物語」の写真展が5月中旬、京都の立命館大学国際平和ミュージアムで開催されることが決まったそうである。ぜひ足を運んでいただきたい。
フォト・ジャーナリスト 1952年、神戸市生まれ。1975年、関西学院大学経済学部卒、読売テレビ(大阪)入社。記者として警察・内政など記者クラブを担当。ディレクターとしてドキュメント番組(NNNドキュメント’83〜’86など)、プロデューサーとして報道番組(ウェークアップなど)を制作。報道局次長、コンプライアンス推進室長を歴任、2013年からBPO(放送倫理・番組向上機構)放送人権委員会調査役、青少年委員会統括調査役などを歴任。2018年フリーに。


