バラエフの妻 『剣ノ舞』(28)
ジャーナリスティック・ノベル『剣(つるぎ)ノ舞』
第28回 〝バラエフの妻〟
渓谷の村は日暮れていた。屹立(きつりつ)する峰々から黒い影が伸び、まだら模様の不吉な染みを広げている。
男から託された紙切れには、×印をつけた家の場所までの道順が鉛筆で描いてあった。おそらく、ジャブライロフに命じられたとおり、間違えないようにメモしておいたのであろう。紙の余白には、〝バラエフ〟という文字が走り書きされていた。これこそ、あのバラエフの家なのか……。
その家は、集落からはずれた草原の小高い丘にあった。なかば這うようにして、丈のある草をかき分けて登った。渓谷は闇に眠ろうとしていた。
白っぽい堆積岩(たいせきがん)のブロックを積みあげた家である。窓ガラスから、オレンジ色のほのかな灯がもれていた。わたしは、緑のペンキが塗られた扉を、思いきり叩いた。窓の明かりが消され、息を潜める気配を感じる。
「どなたか、いませんか!」
わたしはかまわずに、ぶ厚い板戸を叩きつづけた。
「いったいこんな時刻に、だれだね?」
女性の声がした。
「ミカドを探しにきました。怪しいものではありません……」
女性はたちまち緊張したようだ。こわばった声で、
「帰ってください。人違いです」
というと、バタンと扉を閉めようとした。わたしは懸命に頼んだ。
「日本からきたのです! 詳しいことはあとで説明します。それより、連れが峠で倒れています。助けてください、パジャールスタ(どうか)……」
扉がすっと開いた。日本から、という言葉に反応したようだ。茶色いウールのスカーフを首まですっぽり巻いた老女であった。褐色の目が深く落ちくぼんでいる。鼻梁(びりょう)の通った顔で、頬には赤みがさしている。
「だれが、倒れているって?」
わたしは、あの男の名前を知らなかった。男に尋ねたところで、教えてはくれなかったであろうが。
「友人です。ここまで一緒にくるはずだったのですが。ヘリコプターに銃撃されて……」
老女の頬から血の気がさっと引いた。
「ロシア軍にやられたね。それじゃ、助かるまい。こんなに暗くては探しにもいけないから、明日になったら村の若い者を行かせましょう」
とにかくお入りなさい、と家のなかへ招き入れてくれた。握手をしようと右手をさしだしたら、老女が驚いた。
「あんた、手が血だらけだよ。怪我はないかね?」
「いいえ、これは友人の……。ぼくは大丈夫です」
岩にうちつけた背中が疼(うず)いたが、命びろいした幸運を思えばなんでもない。
「手を洗い流しなさい。それから、こっちへきて暖炉にあたりなさい。お腹がすいているんだろう? ちょっと待って。すぐ、こしらえるから」
モスクワからの長距離列車の旅で、アコーディオン弾きの男が教えてくれたチェチェンの言葉があった。ノフチャラ……。人情という意味で、旅人には親切にせよという戒めがあると聞いた。古代ペルシャの時代から旅人が往来した土地であったから、峠道で行き倒れる者もいたのだろう。その命を救い、自分たちの命も救われて生きてきたのが、チェチェンの民族であった。
わたしは、薪が燃える暖かい火に手をかざした。
老女は、アマンと名乗った。うすく焼いた柔らかいパンと、香草野菜にケフィールと粉チーズをまぜたドレッシングをふりかけたサラダを持ってきた。
「ところであなた、名前はなんていうの?」
「東御門(ひがしみかど)です」
「ヒガーシ・ミカド?」
アマンは、なにかに気づいた表情を浮かべた。
「もしや、あなたは……」
「そうです。もしも、あなたがラムザン・バラエフ家の方ならばご存じのとおりです。ぼくの祖父は、ラムザンの息子のアフマドの命を救ったのです。とても親しくしていたと聞いています」
「まぁ……」
アマンは両の手のひらで口をおおった。驚きようは隠せなかった。
「アフマドはわたしの夫です。亡くなったことは、知っていましたか? ロシア軍に殺されたんです」
「カザフにおられるご親せきから聞きました。お目にかかれなくて、とても残念です……」
(つづく)
