ジャーナリスティック・ノベル『剣(つるぎ)ノ舞』
第27回 〝ハラチョイ峠の悪夢〟

 翌朝は、靄(もや)が山に登ってくる前に出発した。
 宇宙を思わせる紫紺(しこん)の空をスクリーンにして、雪をかぶったカフカスの峰の切っさきまでよく見えた。

 まもなくしてトラックは雪道にさしかかった。冬用のタイヤもチェーンもないから、そのまま凍りついた坂道へ突っこんでいった。男は慣れたハンドルさばきで、左右に滑って振れる車の尻をコントロールした。気温は氷点下になったが、わたしにはジャンパーひとつしかなかった。男が放ってくれた汚れた毛布を背中からかぶって丸まった。あとは、神に祈るしかない。

 気づいたときには、トラックは坂をくだっていた。男がいった。
 「ここから、チェチェンだぞ」
 氷河が岩を削ってできた湖を眼下に見ながら、ふたたび山越えの道を登ってゆく。

 ダゲスタンとチェチェンはもともとロシア連邦を構成するふたつの共和国だった。本来なら国境警備兵がいるところだが、このあたりの獣道(けものみち)には検問所すら見あたらない。この男はそれを知っていて、わざわざ困難な山岳ルートを選んだ。わたしは、胸をなでおろしていた。例の偽造パスポートを使わずにすんだからだ。

 弾むようにトラックは走った。男の生まれ故郷もこのあたりなのだろう。すっかり緊張を解かれ、勝手を知った土地にいる気安さが漂っていた。
 ハラチョイという名の峠にさしかかったところで、男がフロントガラスの向こうを指さした。
 「あの小川のさきが、ベデノ村だ」
 峠から流れくだる川にそって視野を移動させると、3キロほど下流に小さな集落が見える。丘の上に土色をした背の低い建物が密集していた。わたしは、ほっと息をついた。

 と、そのとき、男の顔色がさっと変わった。耳を立てるしぐさをした。

 渓谷の川のせせらぎしか聞こえない場所なのに、微妙な雑音が混じっている。しだいに機械的な響きになり、あっというまに猛烈な爆音が迫ってきた。黒い影が山の頂から舞いおりてきた。ロシアの攻撃ヘリコプターMi(ミル)35が2機、来襲したのだった。

 「ドアを開けて、飛びおりろ!」

 男はすばやく運転席から躍りでた。わたしはやや遅れて、助手席のドアを開けて路肩のほうへジャンプした。がつんと鈍い衝撃が伝わって、背中を岩場にうちつけた。男は坂道のまんなかを転がっている。トラックは左寄りに蛇行したまま脱輪し、土煙をあげて崖下へ落ちていった。

 1機目のヘリが、転落するトラックに気づいた。わたしたちの真上を低空で飛行していった。間をおかずに、2機目が飛来した。こんどはぎりぎりまで降下してくる。蛾の蛹(さなぎ)のような形をした不気味な機体だった。操縦桿を握るパイロットが見えた。つぎの瞬間、機関砲が火を噴いた。
 バリッバリッと空気が裂けて、道路の砂利が弾けた。ものすごい風圧で体が浮きあがりそうになって、わたしは必死に岩にしがみついた。ヘリはすばやく上空高く回避して飛び去っていった。

 「おい!」
 道路に伏せたままの男を呼んだ。返事がない。道路の白い砂埃(すなぼこり)に点々と血糊がついていた。わたしは駆け寄って抱き起こした。
 「大丈夫か」
 男にはまだ息があった。黄色いベストの背中に3センチもあろう穴が開いて、腹へ貫通していた。わたしは男の腹に手をあてて押さえた。なま温かくぬるぬるする血液に手が染まった。だが、噴きだす血をとめることができない。大きくあえぐたび、腹の傷口が開いてゆくようだ。ズボンのベルトを抜いて、心臓に近いほうをきつく締めたのだがなんの効き目もない。

 男は、つなぎのズボンのポケットから紙切れをつかみだして、わたしの手に握らせた。たどたどしくいった。
 「ここへ行けば、わかる……」

 わたしは動転した。目の前で、男が還らぬ人になってゆく。それも、機銃掃射(きじゅうそうしゃ)の銃弾を受けて倒れたのだ。わたしは、すでに戦場のまっただなかにいた。なにもかもが、初めてのことだった。
 猛烈な後悔に襲われた。わたしは兵士でもないし、ジャーナリストでもない。つい半年前まで普通の大学生だったのだ。なぜこんなことになっているのであろう……。さきほどまであれほど朗らかだった男が、こうして死なねばならないのはすべてわたしのせいなのだろうか……と。

 男を引きずって3キロも歩くのは不可能だった。とにかく、ベデノという村まで行って助けを求めなければならない。
 なんとか気を取り直して、わたしはとぼとぼ歩いて坂をくだっていった。(つづく)

横村 出
1962年新潟県生まれ。早稲田大学政経学部政治学科卒、同大学院政治学研究科博士前期課程修了。朝日新聞社入社後、ロシア国立サンクトペテルブルク大学へ派遣留学、モスクワ特派員。ナイロビ支局長。チェチェン戦争(2001~2004年)、アフガニスタン戦争(2001~2002年)、パレスチナ西岸・ガザ侵攻(2002年)、イラク戦争(2003年)、ジョージア・ウクライナ革命(2003/2004年)など、旧ソ連東欧〜コーカサス地方〜中近東〜中央アジアの戦場や紛争地、テロの現場で取材。北朝鮮の核問題をめぐる6者協議では第1回〜3回までロシア代表団に同行し北京で取材した。2010年に退社し、独立する。立教大学社会学部、獨協大学外国語学部でメディア論の非常勤講師を務め、早稲田大学オープンカレッジでは「国際報道から読み解く世界」「戦場から読み解く世界とジャーナリズム」の2講座を春夏に開講している。江末壬(えすえ・じん)のペンネームでも小説を執筆する。著書に「チェチェンの呪縛〜紛争の淵源を読み解く」(岩波書店)など。

*リンク先
横村出(amazon.com著者ページ)
江末壬(amazon.com著者ページ)

*Bee Mediaに掲載される筆者の記事は個人的見解に基づいて書かれています。著作権はすべて筆者に帰属します。© 2017 Izuru Yokomura