ジャーナリスティック・ノベル『剣(つるぎ)ノ舞』
第24回 〝グレートカフカス鉄道〟

 ジャブライロフには、パヴェレツ駅へ行くよう指示された。

 この駅は、テロのあった劇場から遠くなく、モスクワ川の対岸にあった。ロシアの南部へ結ぶ長距離列車が発着するターミナルである。
 ロシア帝国時代を思わせる瀟洒(しょうしゃ)な建物ではあったが、巨大な駅舎のなかはロシアの異民族であふれかえっていた。そのほとんどが、カフカス地方からの出稼ぎ労働者の風体(ふうてい)である。どの顔も厳しい労働のために粗い肌をして深いしわを刻んでいた。
 日本から持ってきたバックパックはここで捨てた。カフカスからの旅行者が使っているのと同じ、ビニールを編んで作られた鞄を駅前の露店で手に入れた。なるべく目立たないようにと思って、ごわごわした木綿のズボンも、厚手のジャンパーも、黒のニット帽もすべて古着屋で買って着替えをすませた。

 ジャブライロフからは、偽造されたパスポートと、着信専用の携帯電話を渡されていた。外国人は特別な許可がないかぎり、戦争中のチェチェンに入ることは許されなかった。偽造パスポートは、カスピ海の北に面したロシア連邦のカルムイク共和国のものだった。中世にロシアを攻めたアジア系騎馬民族の末裔(まつえい)がいまでも暮らす国で、チベット仏教を奉じている。その顔立ちは驚くほど日本人に似ているのだった。

 指定された列車は、16時49分発のバクー行き。バクーは、カスピ海の西岸にあるアゼルバイジャンの首都である。総延長2500キロを結ぶ国際列車は、ヴォルゴグラードやアストラハンを経由し、カルムイクを抜けて、チェチェンの隣のダゲスタンを通過する。カルムイク人に成りすませばなおさら好都合というのが、ジャブライロフの読みだった。
 できれば偽造パスポートを使わずにすませたかった。だが、駅で3等寝台車の切符を買おうとしたらさっそく、駅員から「パスポート!」とぶっきらぼうにいわれた。青い革表紙をぽんとカウンターに置いた。緊張の瞬間だった。駅員はぱらぱら中身をめくって、つまらなそうに切符を投げてよこした。

 ホームにはとっくに列車が入っていた。

 カフカスの人々がせっせと荷物を運んでいる。深い緑色の車両のボディには、ソビエト時代そのままに赤い星がペイントされている。わたしは、ホームの側から3等寝台の窓をのぞいて歩き、ひとりぶんの空席を見つけた。車内にいる乗客に窓を開けてもらい、ビニールの鞄を投げ入れた。
 それから、おもむろに列車に飛び乗った。
 客車は人であふれている。3等寝台は2段ベッドになっていて、それぞれの段に人々が鈴なりに座っていた。3段目の台には荷物がつめこんである。コンパートメントの仕切りはないから、着替えも寝姿もまる見えだった。もっとも着の身着のままで、そんなことを気にする者はいない。1等、2等には空席があるが、ここは人いきれで息がつまりそうに感じた。

 がつんと客車に衝撃が伝わった。巨大な機関車に引かれて、30両を連ねる連結器が軋(きし)みながら順に張りつめてゆく。やがて、がくがくと引きずられる感覚があって、列車は長いホームからゆっくり離れていった。
 ため息がでた。チェチェン行きは不安ではあったが、ともかくこのモスクワから解放されるのだ。これは、わたしだけの思いではないようだ。乗客の喉(のど)の奥から安堵(あんど)とも、放心ともつかない声がもれ聞こえた。ようやく故郷へ戻る人々にとって、モスクワ暮らしがよほど過酷だったのだ。
 郊外に連なる無機的な灰色の高層アパート群は、まるで首都を守る防護壁のようにそびえている。この都は、ナポレオンからヒトラーまでたびたび侵略を受けて、そのたびに多くの犠牲を払って持ちこたえたのだった。
 やがて車窓は、金色の葉をまとった一面の白樺(しらかば)の森に変わった。森がとぎれると、ゆるやかに起伏する茶色の大地が地平線まで広がる。秋麦の種を蒔いているのであろう、青色のトラクターが土煙を引いて走っている。

 「この座席はちょっと固いわねぇ?」

 隣の中年の女性が茶色のシートを軽く叩いている。上の寝台にいたのだが、まだ眠る時間ではないので1段目のわたしのシートに相席していた。赤や黄色の花柄模様の木綿のスカーフをかぶって、あごの下で結んでいる。このシートが寝台になるのだが、板に硬質ビニールを貼っただけのようだ。

 「よかったら、ぼくの毛布を1枚下敷きにしませんか?」
 毛布は2枚配られていて、わたしにはひとつで十分だった。
 「ご親切にありがとう。あなた、どちらから?」

 わたしは返事に窮した。女性は素朴な笑顔を浮かべている。この人にうそをつく必要はないだろう……。

 「ええ、日本からです」
 ほほ笑んでいた目もとが、驚いたように見開かれた。
 「まあ、そんな遠くから。それで、どちらまで?」
 好奇心をそそられた様子である。
 わたしは、自分の口に蓋(ふた)をするように手のひらで覆(おお)うしぐさをした。それだけで、女性は理解した。
 「そう、いろんな事情があるのね。わたしたちみんなそうだから」
 そういって、車内を見渡した。それから、この女性は故郷のアゼルバイジャンの美しい風物の話を聞かせてくれたのだった。
(つづく)

ロシアの鉄道
【カフカス(コーカサス)地方】 世界最大の湖カスピ海と、地中海と結ばれる黒海にはさまれた回廊地帯。5000メートル峰のコーカサス山脈を境にして、北側をヨーロッパ、南側を中東アジアとする区分もある。どちらも古来からペルシア、東ローマ・トルコ、ロシアなどの影響を受けてきた。現在、北にはロシアの連邦管区・チェチェン、ダゲスタンなどがあり、南にはジョージア(グルジア)やアゼルバイジャン、アルメニアがある。
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横村 出
1962年新潟県生まれ。早稲田大学政経学部政治学科卒、同大学院政治学研究科博士前期課程修了。朝日新聞社入社後、ロシア国立サンクトペテルブルク大学へ派遣留学、モスクワ特派員。ナイロビ支局長。チェチェン戦争(2001~2004年)、アフガニスタン戦争(2001~2002年)、パレスチナ西岸・ガザ侵攻(2002年)、イラク戦争(2003年)、ジョージア・ウクライナ革命(2003/2004年)など、旧ソ連東欧〜コーカサス地方〜中近東〜中央アジアの戦場や紛争地、テロの現場で取材。北朝鮮の核問題をめぐる6者協議では第1回〜3回までロシア代表団に同行し北京で取材した。2010年に退社し、独立する。立教大学社会学部、獨協大学外国語学部でメディア論の非常勤講師を務め、早稲田大学オープンカレッジでは「国際報道から読み解く世界」「戦場から読み解く世界とジャーナリズム」の2講座を春夏に開講している。江末壬(えすえ・じん)のペンネームでも小説を執筆する。著書に「チェチェンの呪縛〜紛争の淵源を読み解く」(岩波書店)など。

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*Bee Mediaに掲載される筆者の記事は個人的見解に基づいて書かれています。著作権はすべて筆者に帰属します。© 2017 Izuru Yokomura