ミカドのゆくえ 『剣ノ舞』(23)
ジャーナリスティック・ノベル『剣(つるぎ)ノ舞』
第23回 〝ミカドのゆくえ〟
また、ぱちんと指が鳴った。折れそうなほど細身の娘が、足の長いクリスタルグラスに満たしたシャンパンをふたつ、両手に掲げて運んできた。金色の気泡がいくつもゆっくりと立ちのぼって弾け、忘却の香を放っていた。
「どうぞ、お手にとってください。乾杯しましょう」
ジャブライロフが勧めたが、わたしは酒をたしなまない。首を横に振ると、美しい娘は不思議な生きものでも見るようである。ディマがいかにもわたしを軽蔑するような顔をした。
「おや、これは……失礼。あなたもムスリムですか?」
ジャブライロフは、ちらりと動揺をのぞかせた。
「いいえ、ただ受けつけないのです。もちろん、あなたがムスリムであるのに酒を口にしたところで、ぼくがとがめ立てするようなことではありません」
わたしはようやく平静をとり戻していた。このホテルに足を踏み入れてからというもの、すべてがジャブライロフ兄弟の思うようにことが進んでいたからだ。
「それはいい。ならば、さっそくビジネスの話をしましょう。Mはいま、チェチェンに戻っているのですよ。ところがあるときから、連絡がつかなくなった。あなたには、彼を見つけしだい知らせてほしいのです。なあに、難しいことではありません。お教えする場所で待てばよいのです」
「なんですって。Mはチェチェンにいると……」
わたしはマリアの忠告に耳を貸さなかったばかりか、チェチェンには入らないという約束も守れそうになかった。いまさら断る雰囲気ではないし、それに、わたしはどうしてもミカドに会っておきたかったのだ。
「もう少し、詳しく聞かせてもらえませんか?」
「それでは、この取引は成立ということでよろしいですね」
ジャブライロフによれば、事情はこうであった。
ミカドは、あの劇場占拠事件の実行犯のひとりだったが、FSB(フェーエスベー)の特殊部隊が天井裏から毒ガスを噴霧(ふんむ)したときには舞台袖の道具部屋にいた。気づくと、仲間の大部分はステージで倒れていた。ミカドともうひとりの男だけが無事だったが、反撃するにはすでに手遅れだった。そこで、ミカドは戦闘服をすばやく脱ぎ、昏睡(こんすい)している人質の服を奪って着て、観客席に座ってガス中毒にかかったふりをしていたという。やがて兵士が乱入してきて、ガスにやられた仲間たちは男も女もその場で射殺されていった。
大混乱する現場から、救急隊員がミカドを担架に乗せて病院へ運びこんだ。そこでは数百人もの人々が中毒症状を訴えていて、症状の重い者から診察がはじまった。ミカドは病院1階の受付ホールに横たわっていた。医師や看護師だけでなく、治安警察や報道関係者、人質の家族でごった返していた。人目を盗んでミカドはまんまと逃亡に成功した。
その足で、ミカドはジャブライロフのもとへ駆けこんだ。ジャブライロフならば、治安警察だろうが、政治家だろうが、どんな相手でも手玉にとることができる。彼らの脛(すね)の傷をよく知っているからだ。ミカドはホテルの小部屋に数日も潜んでいただろうか、ある日ふっつりと行方がわからなくなった。ミカドの身辺を見張っていたディマだけに、「ママの顔が見たい」と話したという。
むろんのこと、ミカドを逃がしたディマは兄から厳しく叱責(しっせき)された。だれか追っ手をチェチェンへさし向けなければならないところで、ひょっこりとわたしがやってきたというわけだ。
ディマがわたしを値踏みするような目で見ていたのは、「こんな若造に自分の代わりが務まるわけがない」と穏やかではいられなかったからであろう。だが、兄には冷静な読みがあった。弟に追われればミカドは逃げるだろうが、この無邪気な若造が相手ならば姿を見せるかもしれない……と。
つぎの日の昼には、わたしは2ヶ月近くも滞在したホテルを引き払った。
親しくなった鍵おばさんから「どこへ行くの?」と聞かれたが、言葉を濁した。とても、「チェチェンへ」ということはできない。もちろん、マリアにもセリョージャにも話さなかった。なによりも迷惑をかけたくなかったし、相談しても引きとめられるに決まっていたからだ。
ただ、先生の携帯電話にだけショートメールを送った。
短くひと言、
〝CHECHEN NI MUKAIMASU〟
とローマ字で綴(つづ)った。
いまごろ先生はアフガニスタンにいるのだろう。このメールを受信できるかどうかわからないが、もし万が一にもわたしの身になにかあったとき、先生にだけは居場所を知らせたかった。先生はマリアとノルベックの古い友人だ。きっと先生はこれまでのいきさつを調べて、わたしの家族が知りたいであろうことを説明してくれると思った。
ここからさきは、たったひとりで、ミカドを探さなければならなかった。(つづく)
