ジャーナリスティック・ノベル『剣(つるぎ)ノ舞』
第19回 〝灰色の目の大統領〟

 3日目の未明のことだった。事件発生から57時間がすぎようとしていた。わたしは、劇場近くの報道テントで、一睡もせずに夜を明かしていた。突然、大きな爆発音がした。つづいて銃声が響いた。劇場のなかから聞こえたようだった。
 建物の換気塔から、白煙が立ち昇った。ホールの玄関には、防毒服に身を固めた兵士が殺到している。特殊部隊がつぎつぎに人質の手足を引きずって表へ飛びだしてきた……。

 記者たちは騒然とした。規制線を乗り越えて劇場へ走ったが、
 「毒ガスだ! 近寄れば死ぬぞ」
 という叫び声に立ちすくんだ。
 それでも何人かは、劇場へ飛びこんでいった。
 モスクワのすべての救急車が、続々と集まってきた。すさまじいサイレンの渦で、銃声や爆発音が聞きとりにくくなった。劇場の車寄せのあたりには、搬送の順番を待つ人質が数100人も横たえられていた。

 セリョージャが咳(せ)きこみながら、報道テントに駆け戻ってきた。
 「ひでえ。あいつら、毒ガスをまき散らしやがった……。人質はかなり毒を吸ってやられている。かなりの死人がでるぞ」
 「あいつらって、テロリストが毒を?」
 「違うよ。FSBだ。特殊部隊が天井裏に忍びこんで、客席の上からガスをまき散らしたんだ。睡眠薬だっていっているけど、わかるものか。おれは死人を見たんだ」
 わたしの脳裏に、一瞬、ミカドという名前の若者のことがよぎった。
 「テロリストはどうなった?」
 セリョージャは言葉を吐き捨てた。
 「死んだ。全員殺されたよ。男たちはステージで銃殺され、女たちは自爆ベルトを抱えて座ったまま頭を撃ち抜かれた。ひどいざまだったぜ……」
 「それで、マリアは無事か?」
 セリョージャの表情がかき曇った。
 「まだわからないんだよ。おれもそれが心配で……。あのなかにいたのかなあ。そうであれば、毒を浴びて助からないだろう。いやいや、マリアは強運なんだ。どんな銃弾だってマリアにはあたらなかった。それは、このおれが一番よく知っている……」
 自分にいい聞かせるようだった。

 その夜のこと。マリアはひょっこりと新聞社に戻ってきた。まるで別人のようにやつれて、頬はこけ、目が落ち窪(くぼ)んでいた。
 「マーシャ、無事だったか!」
 新聞社のだれもが喜んだが、マリアだけは深い淵(ふち)の底に沈んだ魚のように、わずかに反応して「ありがとう」とつぶやいた。

 マリアは、その日ずっと、クレムリンに足どめされていたのだった。
 マリアだけでなく、交渉人すべてがクレムリンに呼ばれていた。だれもが、まさかまだ交渉しているその間に、強硬な突入作戦が計画されていたとは思ってもいなかった。

◇◇

 「どういうことですか!」
 マリアたちの剣幕(けんまく)に、小柄な大統領府長官がたじろいだ。この男は大統領の後継者と目され、子飼(こが)いにされてきた。クレムリンの支配人の仕事をしていた。〝くるみ割り人形〟に登場するような姿の衛兵が、長官執務室のぶ厚い樫(かし)の木のドアをさっと開けた。
 ドアの向こうから、つかつかと歩んできたのは、ロシア大統領その人であった。
 長テーブルの角の椅子に腰かけて、マリアたちにも座るよう勧めた。冷たい灰色の目をした人だ。心もち左の肩がさがっていて、それと反対の方向へ小首を傾げている。

 大統領の視線がマリアを捉(とら)えた。
 「交渉役、ご苦労さまでした」
 マリアは憮然(ぶぜん)としていた。ひと言ずつ、はっきりと区切るようにして話した。
 「大統領、あなたは、わたしたちを利用しましたね。裏をかきましたね?」
 大統領は、あくまで冷徹だった。
 「それは違います。政府は、あらゆる事態を想定して備えなければなりません。考えてもみてください。あなたがたの交渉が実るかどうかは、だれも保証できないでしょう。それだけでは、国民への責任がはたせない」
 マリアは食いさがった。
 「お言葉ですが、大統領、交渉がまとまるかどうかのご判断は、あなた自身がなさるのではありませんか? ロシア軍をチェチェンから撤退させるとおっしゃれば、人質は全員が無事に解放されたのですよ。こうして100人も命を落とすことはなかった」

 大統領は、皮肉をこめて口もとを歪(ゆが)めた。
 「ほほう……。チェチェンから撤退? どうしてそんなことができますか。われわれが尻尾を巻けば、やつらはますますつけあがる。君は、世の中を知らないようだね。あいつらはほんの一部にすぎない。すべて捕らえてトイレのなかで絞め殺してやる……」
 こめかみに青い筋が立った。大統領は拳を握りしめ、あっけにとられる交渉人たちを鋭い眼光でにらみつけていた。
 話はそれでうち切られ、マリアたちはクレムリンから解放されたのだった。大統領が話したことはひと言ももらしてはならない、と固く口どめされて。
 その帰りぎわに、大統領府長官の小男は慇懃(いんぎん)な態度で、マリアに「お気をつけて」と声をかけたのだった。

 わたしは、あまりに激しく落ちこむマリアの様子を見ていられなかった。それに、せっかくミカドの手がかりをつかんだのに、あっけなく殺されてしまったというではないか。どうしようもない無常観にとらわれていた。

 セリョージャが、わたしに聞いた。
 「君、大丈夫か? ぼおっとして」
 「ああ。惚(ほお)けたんじゃない。この世はすべて無常、いっさいが空(くう)なんだ……」
 「無常? それは禅(ぜん)のことか」
 「そうともいえる。存在すべてがはかないもので、人間はどのように手をつくしてもどうなるものでもない……。無常こそが現実なのさ。諦(あきら)めを知る境地のことだよ」

 「君のいうことは美しいが、諦めてしまえばそれで終わりじゃないか。ロシアは悲しい国だけれど、歴史を壊しては創り、また壊しては創ってきた。それは、絶望と重ねあわせの希望があるからだ。なぜ、君たちは諦めるんだろう……」
 「忘れるためかもしれない。いや、すべて受けとめるためかな」
(つづく)

横村 出
1962年新潟県生まれ。早稲田大学政経学部政治学科卒、同大学院政治学研究科博士前期課程修了。朝日新聞社入社後、ロシア国立サンクトペテルブルク大学へ派遣留学、モスクワ特派員。ナイロビ支局長。チェチェン戦争(2001~2004年)、アフガニスタン戦争(2001~2002年)、パレスチナ西岸・ガザ侵攻(2002年)、イラク戦争(2003年)、ジョージア・ウクライナ革命(2003/2004年)など、旧ソ連東欧〜コーカサス地方〜中近東〜中央アジアの戦場や紛争地、テロの現場で取材。北朝鮮の核問題をめぐる6者協議では第1回〜3回までロシア代表団に同行し北京で取材した。2010年に退社し、独立する。立教大学社会学部、獨協大学外国語学部でメディア論の非常勤講師を務め、早稲田大学オープンカレッジでは「国際報道から読み解く世界」「戦場から読み解く世界とジャーナリズム」の2講座を春夏に開講している。江末壬(えすえ・じん)のペンネームでも小説を執筆する。著書に「チェチェンの呪縛〜紛争の淵源を読み解く」(岩波書店)など。

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*Bee Mediaに掲載される筆者の記事は個人的見解に基づいて書かれています。著作権はすべて筆者に帰属します。© 2017 Izuru Yokomura