ジャーナリスティック・ノベル『剣(つるぎ)ノ舞』
第17回 〝ミカドと呼ばれる男〟

 締め切り時間が迫っていた。新聞を印刷する輪転機(りんてんき)をとめ、マリアの原稿を待つばかりだった。マリアはひとり猛然とキーボードを叩いて文字を埋めていった。漆黒(しっこく)の闇を透かした窓硝子(がらす)に、ディスプレイの放つ青白い光がまるで浮遊する霊魂(れいこん)のように映った。

 わたしはじっと待っていた。
 このテロの全貌(ぜんぼう)を知っているのは、目の前のマリアしかいないのだった。大部屋にずらっと並ぶテレビが中継をつづけている。CNN、BBC……いまや世界中が震撼(しんかん)していた。
 マリアがどんな記事を書くか、ここにいるわたしもセリョージャも、記者のみんなが固唾(かたず)を飲んで見守った。おそらくは、クレムリンに閉じこもっている大統領も、FSBの長官も、マリアを交渉人に指名したテロリストにしても、みな同じであったろう。

 1時間もかけずに、マリアは2、3本の記事をしあげていった。その原稿に目を通した編集長の目つきがいつになく厳しい。
 彼は、かつてゴルバチョフの片腕になって〝グラスノスチ〟(情報公開)と呼ばれた改革を支えた。権力者を怖れない、老練(ろうれん)の人だった。政府との衝突が予見されても、多少のことには揺るがない気骨があった。その人が、心なしか血の気が引いて青ざめた顔に見えるのだった。
 マリアの原稿は、編集長しかアクセスできないようロックされていた。テロリストやFSBが新聞社のサーバーに侵入して盗みだすのを警戒したのだ。だから、マリアがなにを書いたのかは、同僚であっても朝刊が刷りあがるまではわからなかった。

 暗く垂れこめていた雲が、灰色に変わるころ。長い夜の底が白み、氷の結晶が蜘蛛(くも)の巣のように窓硝子を覆っていた。窓の外の公園は一面の雪景色に変わっていた。
 わたしは、マリアのためにコーヒーを淹れた。マリアはいつものように、窓辺に佇(たたず)んでひと息ついた。白い湯気の立つマグカップに顔を近づけて、しばらく目を閉じた。

 「あのね。劇場にいるテロリストのグループのなかに、ミカドという名前で呼ばれている若い男がいたの。もしかして、あなたが探していたアフマド・ミカドという人の血縁ではないかしらと思ったのよ……」

 わたしは、一瞬で意識がはっきりした。
 心を決めて日本に帰ろうと思っていた矢さきに、ミカドがわたしの前に姿を現そうとしているのだった。昨夜、焦燥(しょうそう)に駆られて現場へ飛びだしたのは、ミカドとの意識の深層での交感だったのか……。

 「驚いた?」
 わたしはうなずいた。
 マリアは胸の前で腕を組み、右手でそっとあごを支えた。いつもの、もの思いのしぐさだった。
 「ミカドという姓はチェチェンの伝統社会ではありえないから、きっとあなたの尋ね人と関係があるわ。ミカドの年齢は、あなたと同じぐらいかしら。20歳すぎに見えたわね。ほっそりして背が高くて、鋼(はがね)のように引き締まった体つきだった。顔の印象は……。まだどこか幼さがあったけど、目に強い光を宿していた。知性を感じたわ」

 マリアはミカドの特徴をひとつずつ挙げていったが、大事なことを思いだした。
 「ミカドだけがほかのチェチェン人と違っていたのは、頭に白い紐(ひも)のような布を巻きつけていたことよ。なんていうのかしら、昔の日本のサムライがつけていたような……。長い布を頭にまわしてうしろで結ぶの」
 「鉢巻きですか?」
 「そう! その鉢巻きのまんなかには、ちょうど額のあたりなんだけど、黄金の円がくっきりと描かれていたのよ。まるで、あなたの国の赤くて丸い国旗のような……」
 わたしは、祖父の古びたアルバムの写真を思いだしていた。あれは祖父が軍医として満州に出征(しゅっせい)するときだったろうか。どこかの港で家族に見送られている祖父は、陸軍の服を着て、制帽を脱いだ額に日の丸を描いた布の鉢巻きを結んでいたのだった。

 「わたしはきょうもこれから、テロの現場に入って交渉しなければならないの。もしもミカドと話すことがあれば、なにか聞いておくわね。たぶん、そんなプライベートな話をする余裕はないと思うけれど」
 わたしはマリアには「無理をしないでほしい」といったが、ミカドという若者のことはどうしても知りたくなっていた。(つづく)

横村 出
1962年新潟県生まれ。早稲田大学政経学部政治学科卒、同大学院政治学研究科博士前期課程修了。朝日新聞社入社後、ロシア国立サンクトペテルブルク大学へ派遣留学、モスクワ特派員。ナイロビ支局長。チェチェン戦争(2001~2004年)、アフガニスタン戦争(2001~2002年)、パレスチナ西岸・ガザ侵攻(2002年)、イラク戦争(2003年)、ジョージア・ウクライナ革命(2003/2004年)など、旧ソ連東欧〜コーカサス地方〜中近東〜中央アジアの戦場や紛争地、テロの現場で取材。北朝鮮の核問題をめぐる6者協議では第1回〜3回までロシア代表団に同行し北京で取材した。2010年に退社し、独立する。立教大学社会学部、獨協大学外国語学部でメディア論の非常勤講師を務め、早稲田大学オープンカレッジでは「国際報道から読み解く世界」「戦場から読み解く世界とジャーナリズム」の2講座を春夏に開講している。江末壬(えすえ・じん)のペンネームでも小説を執筆する。著書に「チェチェンの呪縛〜紛争の淵源を読み解く」(岩波書店)など。

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*Bee Mediaに掲載される筆者の記事は個人的見解に基づいて書かれています。著作権はすべて筆者に帰属します。© 2017 Izuru Yokomura