ジャーナリスティック・ノベル『剣(つるぎ)ノ舞』
第16回 〝交渉役〟

 「おい! 君!」
 わたしは恐ろしい光景を見て臆病になっていたから、その大声にびくっとした。
 「おれだよ。セルゲイだ」
 報道陣をかきわけて、マリアの同僚のセリョージャが近づいてきた。重そうなカメラを2台、首からたすきがけにしている。

 「君がマリアの名を叫んだから気づいたんだ。こんなところでなにしている?」
 「テレビを見て駆けつけたんだ。なぜか、じっとしていられなくて……」
 セリョージャの表情がちょっと和らいだ。
 わたしには、彼の顔が地獄の救世主のように思えたものだ。
 「マリアはなぜ劇場へ? 取材なの?」
 「ニェット(違うよ)」
 セリョージャは口もとを結んだ。盗み聞きされないように、小さな声でささやいた。
 「人質を解放するためには、まず、テロリストの要求を知らないといけないだろ。マリアは、その交渉に行ったのさ。テロリストのほうから指名されたんだ」
 わたしはため息をもらした。この瞬間にもどのような目に遭(あ)うかわからない、マリアの身の上を案じていた。

 セリョージャの解説によれば、劇場を占拠しているテロリストは40人ほどいて、そのうち女性が10人いるらしい。マリアがテロリストから直接、電話で聞いた情報だ。
 実は、事件が起きてまもなく政府から新聞社に連絡があって、マリアがクレムリンの大統領府に呼びだされていた。
 政府は、テロ犯との交渉に情報機関FSBをあたらせようとしたが、「信用がおけない」と犯人側に拒否された。「それではだれとなら交渉できるのか」と問いただすと、テロリストは何人かのロシア人の名を挙げた。そのひとりが、マリアだったというわけだ。

 交渉人に指名された政治家や弁護士はためらったが、マリアだけは躊躇(ちゅうちょ)しなかった。戦争に苦しめられている市井(しせい)の声を代弁してきたからだ。テロリストもマリアの名は知っていたということだ。

 FSBは事件後すばやく、劇場と外部を結ぶ電話線を確保していた。テロ対策本部との間だけで通話できる回線に切り替えた。マリアはこの直通電話を使って、いますぐに必要なものを聞き、水や食糧や薬をバッグにつめて持っていったのだった。
 「いま、あの劇場のなかはどうなっているんだろう……」
 わたしは独り言をつぶやいていた。
 そのころ、劇場の大ホールのなかでは、数多くの観客や出演者を監禁するため、テログループが巧妙な仕掛けをつくっていた。その様子は、観客がこっそり携帯電話を使って外部に連絡をとったことで判明していた。

 あるテレビの女性局員は、たまたま観劇していて事件に巻きこまれ、スタジオに電話をかけてきた。
 「上演中に数人の男たちがステージに駆けあがってきた……。はじめはなにかの演出かと思ったけど、いきなり銃を乱射して……。それから全身黒ずくめの衣装で、目だけのぞかせた人たちが入ってきたわ。女よ。その女がいまわたしの近くにいて……」
 それで、電話はぷつっと切れた。ほかの人質からも、警察や家族に電話があったのだが、それもじきに途絶えた。
 そうした断片的な通話から、テロ犯が乱入したときに逃げようとした数人が背後から撃たれたことや、男たちは銃を持ってステージの上で威嚇(いかく)していることがわかった。人質は座ったままで身じろぎもできずにいた。

 わたしは、交渉のために入ったマリアが心配で、現場を離れられなかった。
 寒さがつのるばかりで、手足のさきからしびれるように凍えた。3時間もたったころ、特殊部隊の数人の兵士に動きがあった。通用口からでてきたマリアをとり囲んで隠すようにして、車でどこかへ連れ去ったのだ。あっというまのことで、報道陣が追いすがる隙(すき)もなかった。
 セリョージャが、地面に唾(つば)を吐いた。
 「ちぇっ! FSBのやつら、マリアを監禁して情報を搾(しぼ)りとるつもりだろうが、そうはいかない。マリアは鳩(はと)のように弱く見えるけど、石よりも固い信念を持っている」

◇◇

 それから、マリアがようやく新聞社に戻ってきたのは午前零時をまわったころだ。
 わたしはセリョージャと一緒に、マリアのオフィスにずっとつめていた。朝刊でこの大ニュースを報道しようと、大部屋は熱気にあふれ、徹夜の作業がつづけられていた。
 大部屋のドアが開き、いつものロングコートを着たマリアが姿を見せると、どっと歓声があがって拍手が湧(わ)いた。
 「みんな、心配してくれてありがとう」
 マリアの頬(ほお)に明るい色が射して、ようやく生気が戻ったように見えた。大部屋を突っ切ってオフィスに入ると、セリョージャが駆け寄った。マリアの小さな肩をぎゅっと抱いた。
 「お疲れさま……」
 セリョージャは涙ぐんでいる。

 マリアは、わたしに気づいてはっとした。なにもいわずに抱擁を交わした。そっと耳もとに小さくささやいた。
 「あなたに大切な情報があるの。悪いけど、もう少しここにいられるかしら?」

 そして、いつもの調子に戻った。
 「さあ、記事を書くわよ。いまはなにがあったか詳しく話せないけれど、まずは人質の安否を社会に知らせないと。それから犯人たちの目的と要求についても……」
(つづく)

赤の広場
【モスクワ劇場テロ事件】2002年10月23日夜、モスクワ中心部のドブロフカ劇場で上演されていたミュージカルの舞台が、チェチェン過激派によって占拠されたテロ事件。観客や俳優、オーケストラの1000人近くをそっくり人質にした類例のないテロだった。写真=赤の広場。右手の国旗を掲げたドーム屋根が大統領宮殿、左奥がスパスク塔 © lindrik / PIXTA

横村 出
ジャーナリスト/作家
1962年生まれ。早稲田大学の大学院で比較政治を学んでから、朝日新聞社に入って記者として働く。ほどなくロシアのサンクトペテルブルク大学で言語文化を習う。その後、モスクワやアフリカに海外特派員として駐在しつつ、いくつかの戦争や革命、テロの現場を歩いた。2010年にフリーランスへ転身する。早稲田大学オープンカレッジでは「国際報道から読み解く世界」「戦場から読み解く世界とジャーナリズム」の2講座を開講している。江末壬(えすえ・じん)のペンネームで小説を執筆する。著書に『チェチェンの呪縛−紛争の淵源を読み解く』(岩波書店)など。

*Bee Mediaに掲載される筆者の記事は個人的見解に基づいて書かれています。© 2017-18 Izuru Yokomura