ジャーナリスティック・ノベル『剣(つるぎ)ノ舞』
第12回 〝闇市場のネタ〟

 翌日、マリアはずいぶん冷静になったように見えた。彼女の取材でもやはり自爆犯はチェチェン人の女性であることが判明したからだ。それも結婚したばかりの18歳の若さという。
 わたしは、先生の講義で聴いたチェチェン独立戦争のことを思いだしていた。この10年ほどずっと、ロシアからの独立を要求する一派と、これを阻止したいロシアとの間で紛争がつづいてきた。それにしても、女性までがロシアの心臓に飛びこむようにして自爆しなければならないのはなぜなのか。
 わたしは、そのわけをマリアに尋ねた。

 「難しい質問ね。ひとつには、この夏からロシアの大統領はチェチェンでの戦線を拡大していること。グルジアあたりまで空爆しているらしいわ。それで、チェチェンではおびただしい死者がでていること。それでもロシアは戦争をやめる気がまったくないこと、かしら。この3つの点を結んだまんなかに答えはあるでしょうね」
 「でも、チェチェンがそれほど弱っているのに、なぜロシアは攻撃をやめて交渉しないのですか?」
 「それは、ロシアがテロとの戦いを宣言しているからよ。テロを撲滅(ぼくめつ)するには、すべて殲滅(せんめつ)しなければ終わらない。おおかたの市民は板ばさみよ。どっちも支持できないといっている人でも殺される。すべてテロの予備軍、支援者とみなされるわけね」
 「それって、ジェノサイド(大量虐殺)ですよね」
 「そのとおり。チェチェンの人口は10年前に比べて3分の2まで減ったの。それでも殺戮(さつりく)はまだ終わっていないわ」
 「……」

 なんてことだ、とわたしは思った。祖父の手記にあったが、チェチェン人はソビエト時代にも祖国を追われていたのだった。
 ミカドの父ラムザンは、そうやってカザフスタンに移住させられた。抑留された日本人に深く同情し、祖父の復員が決まったときには、自分のことのように喜んでくれた。チェチェン人はいまも祖国を持つことが許されず、力によってねじ伏せられようとしている。
 「さあて、質問はそのぐらいにしてちょうだい。きょうはこれから、わたしの取材につきあう気はあるかしら?」
 そういうやいなや、マリアはバッグの革紐を肩にかけてオフィスをでて、大部屋にいる同僚のカメラマンに声をかけた。
 「セリョージャ! チェルキーゾフ市場へ行くんだけど、一緒にきてくれない?」
 カーキ色のベストを着ていかにも屈強そうな大柄の男が、やおら立ちあがった。
 「マーシャ、もちろん行くとも。例のテロ事件の取材だね」
 新聞社から飛びだしてゆくふたりのあとをわたしは追いかけた。なんとも不思議な展開になってしまったと、思った。

◇◇

 チェルキーゾフ市場は、モスクワの北のはずれにあった。近くに有名なサッカーチームのスタジアムがあるらしく、したたかに酔ったスキンヘッズがたむろしている。
 だが、その市場だけは、カフカス系やアジア系移民の解放区のごとく活気に満ちていた。ロシアが多民族国家であると思い知らされる場所だった。不良連中など寄せつけない、異質な闇社会の雰囲気が漂っていた。

 マリアとセリョージャは、そんなことにはおかまいなしだった。巨大な雑居ビルのなかにずんずん分けいってゆく。
 そこは雑多な出店の迷宮のようだった。香草をたっぷりのせた骨つき肉が炭火に焼かれて煙をあげている。香辛料をきかせたまっ赤な炒飯の鉄鍋をかきまわす音がする。
 セリョージャは、裾(すそ)の長いローブのような黒い衣を着た店主にアラビア語で「サラーム(平安あれ)」と声をかけて、カメラのシャッターを切っている。マリアはそれに目もくれずに市場の奥の地下階へおりていった。
 そこは、地上とは違った甘酸っぱい異臭が漂っていた。若いロシア人が内股歩きでふらついている。そのまわりにいる肌色の違う男たちが白い歯を見せた。マリアに気づいて、男は手にした注射針をポケットにすっと隠した。
 いまならわたしにもわかるが、それは明らかに麻薬中毒の症状だった。中央アジアからアフガニスタンで違法に密造された薬物を、この闇市場で売りさばいているのだった。

 マリアはまったく表情を変えなかった。
 「プリヴィエット!(こんちは)」
 といった。
 男はチッと舌うちして、
 「ミリツィア(サツ)かよ?」
 とそっぽを向いた。まわりにいた者たちは、蜘蛛(くも)の子を散らすようにどこかへ姿を消した。
 「違うわ。あなた、サレマ・ザィーエバがどこにいるのか、知らないかしら? ちょっと探しているんだけれど……」
 男は不審そうであった。マリアが自らの新聞社の名を告げると、男のひげ面の頬(ほほ)が少しだけ緩んだように見えた。
 「ふーん、ジャーナリストか。ロシアの糞新聞のなかじゃ、おまえさんとこだけはちっとはまともなようだなあ。そういえば、チェチェンの戦場まで行って記事を書いている勇ましい女がいただろうが……」
 そこまでいって、男ははっと気づいたような顔をした。ぽんと両手をうちあわせた。
 「もしかしておまえさん?」
 「そんなところね」
 マリアが答えると、男はポケットに隠した注射器をもぞもぞひっぱりだして、ばつの悪そうな笑みを浮かべた。
 「これは、おれたちの対テロ作戦さ。ロシア野郎をふぬけにして攻撃をやめさせる。おまえさんなら、サツに売ったりしないよな」
 警察に闇情報を提供して見返りを受けているジャーナリストもいたが、マリアはもちろん、そんなことにはまったく関心がなかった。

 男は、やおらいった。
 「サレマなら、いまは家に閉じこもって隠れているさ。なにしろ、娘がシャヒード(殉教者)になって大変なことをやっちまったからな。ロシアのやばい連中も、いまごろ必死になって娘の家族を探しているだろう」
 そこから2ブロックほど離れたアパートの住所をなぐり書きした。マリアはそれを受けとって、外へ駆けだした。
(つづく)

横村 出
1962年新潟県生まれ。早稲田大学政経学部政治学科卒、同大学院政治学研究科博士前期課程修了。朝日新聞社入社後、ロシア国立サンクトペテルブルク大学へ派遣留学、モスクワ特派員。ナイロビ支局長。チェチェン戦争(2001~2004年)、アフガニスタン戦争(2001~2002年)、パレスチナ西岸・ガザ侵攻(2002年)、イラク戦争(2003年)、ジョージア・ウクライナ革命(2003/2004年)など、旧ソ連東欧〜コーカサス地方〜中近東〜中央アジアの戦場や紛争地、テロの現場で取材。北朝鮮の核問題をめぐる6者協議では第1回〜3回までロシア代表団に同行し北京で取材した。2010年に退社し、独立する。立教大学社会学部、獨協大学外国語学部でメディア論の非常勤講師を務め、早稲田大学オープンカレッジでは「国際報道から読み解く世界」「戦場から読み解く世界とジャーナリズム」の2講座を春夏に開講している。江末壬(えすえ・じん)のペンネームでも小説を執筆する。著書に「チェチェンの呪縛〜紛争の淵源を読み解く」(岩波書店)など。

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*Bee Mediaに掲載される筆者の記事は個人的見解に基づいて書かれています。著作権はすべて筆者に帰属します。© 2017 Izuru Yokomura