ジャーナリスティック・ノベル『剣(つるぎ)ノ舞』
第10回 〝モスクワへの切符〟

 わたしの脇に黒い車が急停車した。驚いて振りかえると、背後からなにものかが走り寄る気配を感じた。茶色の革ジャンパーの腕がわたしの首にからんだ。反射的にわたしは体を低く落とし、その腕をすり抜けた。
 反対へ駆けだすと、急停止した車がタイヤをきしませて方向転換し、またうしろから猛スピードで迫ってきた。車に轢(ひ)き倒されるかと戦慄(せんりつ)したそのとき、路地の向こうから手招きする人影が見えた。

 その手が示す横丁のほうへ飛びこむと、人影は背中を見せて導くようにわたしのさきを走っていった。
 狭い路地に車は入れない。一気に路地を走り抜け、その人影は小さな車の運転席へ飛びこんだ。すばやく助手席のドアを内側から開けて、わたしが乗るやいなやアクセルをふかした。煙幕のような排ガスが巻きあがり、車は転がるように疾走(しっそう)した。

 ハンドルを握っていたのは、ノルベックだった。わたしはあっけにとられた。追っ手を巻いてから、ノルベックが口を開いた。
 「危なかったな。あれはFSB(フェーエスベー)だ。どういうわけか知らんが、イスラム過激派がらみの捜査だろう…… 拘束されれば1ヶ月はでてこられない」
 わたしは息を切らしていた。
 「なぜ、情報機関に追われなければ? 狙われたのはぼくなのか、それとも…… もしかして、あなたなのか……」
 「さあて。ふたりとも、かもな」
 ノルベックの顔に陰が射した。
 そのころのわたしは、情報機関の捜査というものが、容疑者を割るためではなく、犯人を創りだすためであることなど、まったく理解していなかった。

 「さっき、ルィノックで大きな爆発があったんだけど……」
 「おまえ、現場にいたのか?」
 「はい。いったいだれが?」
 「あれは、ロシア人相手の店を狙ったんだろう。やつら、おおっぴらに豚肉を売っているからな。たぶん、過激派の跳(は)ねっ返りのしわざか」
 ギアをローに戻しアクセルを踏みこんだせいで、がくんと揺れた。
 ノルベックはルームミラー越しに後方をうかがっている。
 「もうヤサが割れているだろうから、ホテルへは戻れない。今晩は、おれのアパートにきてくれないか」
 そういって、下町のごみごみした一角へ車を走らせた。ノルベックは、いわゆる1Kの狭い部屋にひとり暮らしだった。ソファに毛布を敷いて手早く寝床をつくってくれた。
 その晩はあまりに疲れていたから、ミカド探しのてん末を話すまもなく眠りに落ちた。ノルベックの煙草のスパイシーな匂いが、高ぶった意識を心地よく麻痺(まひ)させてくれた。

 翌朝、ノルベックは、カップに入れたネスカフェの粉末を湯で溶かしながら、「君はこれからどうする?」と尋ねた。ラムザンとアフマド・ミカドに会えなかったことは、わたしの沈んだ表情から察したようだ。
 「これで終わりにして、帰国すべきかどうか迷っています。でもまだ大切ななにかをつかんでいない気がして…… ミカドはなぜあっさりと父と母の家を捨ててまで、危険なチェチェンへ帰ったのか。しかも、戦争に巻きこまれたあげくに死なねばならなかったのか。どうにも釈然としません」
 「釈然としない、か。戦争なんて理屈ではわからないことばかりだ。けれど、興味を持ったなら、とことん調べるしかない」
 「どうやって?」
 「ロシアという巨人を知っているか? 君らのお祖父さんの世代にしても、もしロシアをよく理解していたら、あんな戦争にはならなかっただろうね。どうせここまできたのだから、モスクワまで足を伸ばしてみたらどうだ?」
 ノルベックの提案は図星だった。
 「それを考えていたところです。先生、いいえオーヤサンからも、モスクワに行くなら、あるジャーナリストに必ず連絡をとるようにアドバイスされました」
 ちょっとコーヒーに咽(むせ)せて、ノルベックはあごをしゃくっていった。
 「マリアのことだな?」
 「そう、たしかマリア・クラソフスカヤという名前です。なんでも、チェチェンを最も知っているロシア人なんだとか」
 ノルベックはうなずいた。
 「そのとおり。少し補足するなら、かなり手強い」

 「ところでおまえさん、学生だったかな。それとも仕事をしているのか? そういえばまだ、なにも聞いてなかったよな」
 先生からとっくに知らせてもらったはずだと思っていたが、どうやらジャーナリストというのは、仕事と関係ないプライベートには触れないようにしている種族らしい。
 「大学はこの春で卒業しました。職業を問われれば、日本の狂言師と答えています」
 ノルベックはぽかんとした顔をした。そこでわたしは、狂言という芸能について簡単に説明してやった。
 「そうか、ようするにコメディアンか」
 そういって、ますます狐(きつね)につままれたような表情をした。
 チェチェンに首を突っこもうとしている日本の若者が、なぜコメディアンをやっているのか不思議な様子だった。

 「まあいい」と話もなかばで切りあげると、ノルベックは、わたしを街の旅行代理店へ連れて行った。運よく、モスクワ行きのフライトに空席があった。
 翌朝早く、空港まで車で送ってくれた。別れぎわになって、気になる情報をふっともらした。

 「昨日の市場の爆破のことなんだが…… どうやらFSBが、ミカドと名乗る男を捜しているらしい。君は、早くここを離れたほうがいい」

 いったいどういうことなのか、わたしは混乱した。
 アフマド・ミカドは戦争で亡くなったはずではないか。同じ名前の人物がいるのであろうか……
 ノルベックに背中を押されて、わたしはロシアへ飛ぶことになった。
(つづく)

横村 出
1962年新潟県生まれ。早稲田大学政経学部政治学科卒、同大学院政治学研究科博士前期課程修了。朝日新聞社入社後、ロシア国立サンクトペテルブルク大学へ派遣留学、モスクワ特派員。ナイロビ支局長。チェチェン戦争(2001~2004年)、アフガニスタン戦争(2001~2002年)、パレスチナ西岸・ガザ侵攻(2002年)、イラク戦争(2003年)、ジョージア・ウクライナ革命(2003/2004年)など、旧ソ連東欧〜コーカサス地方〜中近東〜中央アジアの戦場や紛争地、テロの現場で取材。北朝鮮の核問題をめぐる6者協議では第1回〜3回までロシア代表団に同行し北京で取材した。2010年に退社し、独立する。立教大学社会学部、獨協大学外国語学部でメディア論の非常勤講師を務め、早稲田大学オープンカレッジでは「国際報道から読み解く世界」「戦場から読み解く世界とジャーナリズム」の2講座を春夏に開講している。江末壬(えすえ・じん)のペンネームでも小説を執筆する。著書に「チェチェンの呪縛〜紛争の淵源を読み解く」(岩波書店)など。

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*Bee Mediaに掲載される筆者の記事は個人的見解に基づいて書かれています。著作権はすべて筆者に帰属します。© 2017 Izuru Yokomura