ジャーナリスティック・ノベル『剣(つるぎ)ノ舞』
第7回 〝抑留の跡〟

 ふたたびノルベックがホテルに姿を見せたのは、1週間してからだった。その間に、わたしは街の隅々まで歩きまわってみた。

 ホテルの近くには、戦勝記念公園という広場があった。この国の戦勝とは第2次世界大戦の勝利のことで、敗戦した国々にはむろん日本も含まれていた。
 だが、ソビエトスタイルの仰々しい兵士の像や永遠の火も、どこか勝利にほど遠く悲しげに見えてしかたなかった。碑文を読んでわかったのだが、カザフスタンとはなんの縁もない対独戦に駆りだされ、多く命が失われていた。
 この公園の整備は大戦の終結後まもなくはじめられ、祖父たち日本人の抑留者が使役(しえき)されたのだった。そこだけではない。科学アカデミーや、抑留者に厳しく目を光らせたKGB(カーゲーベー)のビルまで、祖父らが石を積んで築いたのだった。先生がリストにしてくれた抑留者の足跡を、巡礼のようにひとつずつたどって歩いていった。

 そのさきのブロックに、抑留者が建てたオペラ座があった。劇場にしては小ぶりだが、柱は白漆喰(しっくい)で固められ壁が黄色に塗られた堅牢(けんろう)な建築だった。基礎から柱の立ちあがりや、ギリシア風の破風(はふ)のつくりなど、いかにも潔(いさぎよ)い直線で丁寧にしあげられていた。

 劇場のキオスクで昔から働いているという老いた女性が、こんなふうにいった。
 「おや、日本からきたのかい? ここは日本人が建ててくれてね…… 大きな地震にも遭(あ)ったけれど、びくともしなかった」
 このときの会話は嬉しくもなく、ただほろ苦いだけだった。あなたの先祖はとてもよい奴隷でしたよ、と誉(ほ)められたようで……
 さらに聞けば、ここではドイツの敗残兵も抑留されたが、「彼らはサボタージュを決めこんだ」と、この老女は肩をすくめて軽蔑するように語ったのだった。

 祖父は狂言の宗家(そうけ)に生まれながら、西洋音楽が好きだった。土蔵のなかには、祖父が残した戦前のレコード板がたくさんあった。
 なかでも、祖父はペルゴレージの歌劇を好んでいた。晩年は、宗教曲〝スターバト・マーテル〟をくり返し聞いていた。その歌詞がいまも耳に残るほど、よく覚えている。抑留者はこのオペラ座を完成させても、舞台を見ることはむろんかなわなかったろう。

 祖父たちが、抑留されてなお勤勉であろうとしたのは、それを苛烈(かれつ)な運命として受け入れたからなのか。それとも贖罪(しょくざい)なのか。
 わたしに思いあたるのは、世阿弥(ぜあみ)が書いたといういくつかの能の演目だった。
 理不尽さゆえの恨み、憎しみ、嫉妬。現世の業(ごう)を宿運として受けて死に赴(おもむ)きながら、霊魂になってふたたび立ち現れ、この世に思いを残そうとする…… それもつかの間、やがて深い諦観(ていかん)につつまれて永遠のなかへ去りゆくのだった。
 なぜだろう。そこには、絶対的な運命の支配者、つまり神への怒りも抗議もない。旧約聖書に登場する聖人のヨブは、理不尽(りふじん)な運命を与えたもうた神に論争を挑(いど)もうとした。苦しみを訴え、救いを願って絶望に耐えたのだ。
 わたしたちの諦観のわけは、絶対神が存在しないからなのだろうか。あるいは、運命に抗(あらが)うほどにも信じていないからなのか。

 だがこの街でも、神の存在はうすくなってしまった。かつてチンギスハンの帝国の一翼を担(にな)っていたころから独自の文化を花咲かせたのだが、ソビエトの70余年の支配の間にすっかりイスラム教は影を潜めていた。
 かろうじてモスクだけは残ったが、祈りを知らせるアザーンの呼びかけもなく、礼拝所はがらんどうの博物館のようだった。わたしは、荒れはてたモスクの中庭を囲むように建てられた回廊を見て歩いた。

 奥まった小部屋から、独特のアクセントで唱和する声が聞こえてきた。子どもたちの流れるように美しいコーランの調べだった。白ひげをたくわえた小柄な老人が、黒板に白墨(はくぼく)で書いたアラビア文字を指さし、子どもの瞳がそれをなぞるように追っている。
 老人はわたしに目をとめた。胸に片手をあて、「サラーム(平安あれ)」といった。
 この人は、ソビエト時代の宗教弾圧に耐えて信仰を守った長老だった。ようやく自由になったのに、多くの人が信仰を失っていた。老人は、幼子から正しく導こうとしていた。
 わたしはこのモスクへ毎日通って、老人の話に耳を傾けた。アフマド・ミカドに会うときのために、わたしは伝統的なイスラムのことを知っておきたかったのだ。

 現実には、アメリカで起きたテロがイスラム世界をも揺るがし、反動的な過激思想が若者たちを洗脳していた。このあたりでも、ロシア人はムスリムを〝ジハーディスト〟と呼んでまるでテロリスト扱いだった。この慎ましいモスクですら、ロシアの情報機関FSB(フェーエスベー)が監視していたことは、あとになって気づかされることになる。

 活気にあふれていたのは、ルィノックと呼ばれる市場だった。赤く口を開いたザクロやラグビーボールほどのスイカが山と積まれ、羊肉は鈎(かぎ)に吊りさげられて目を閉じた羊の頭も並べて売られていた。わたしは、中国製のカーキ色のうす手のセーターと黒い羊毛で編んだキャップを買ってホテルへ帰った。

 わたしの姿を見たノルベックは、満面の笑みを浮かべた。
 「いいんじゃないか。その格好なら、地元の少年のように見えるよ」
(つづく)

横村 出
1962年新潟県生まれ。早稲田大学政経学部政治学科卒、同大学院政治学研究科博士前期課程修了。朝日新聞社入社後、ロシア国立サンクトペテルブルク大学へ派遣留学、モスクワ特派員。ナイロビ支局長。チェチェン戦争(2001~2004年)、アフガニスタン戦争(2001~2002年)、パレスチナ西岸・ガザ侵攻(2002年)、イラク戦争(2003年)、ジョージア・ウクライナ革命(2003/2004年)など、旧ソ連東欧〜コーカサス地方〜中近東〜中央アジアの戦場や紛争地、テロの現場で取材。北朝鮮の核問題をめぐる6者協議では第1回〜3回までロシア代表団に同行し北京で取材した。2010年に退社し、独立する。立教大学社会学部、獨協大学外国語学部でメディア論の非常勤講師を務め、早稲田大学オープンカレッジでは「国際報道から読み解く世界」「戦場から読み解く世界とジャーナリズム」の2講座を春夏に開講している。江末壬(えすえ・じん)のペンネームでも小説を執筆する。著書に「チェチェンの呪縛〜紛争の淵源を読み解く」(岩波書店)など。

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