ジャーナリスティック・ノベル『剣(つるぎ)ノ舞』
第1回 〝あるテロリストへの手紙〟

 チェチェン……

 その言葉をはじめて聞かされたのは、祖父からだった。小鳥のさえずりのような、メカニカルな装置がきしむ響きのような不思議な音色であった。
 それが、ロシアのはるか南に隣りあわせた国家、あるいはロシアに侵略されたカフカスの地域を示す固有名詞であると知ったのは、わたしが大学生になったときだった。

 あれは、20世紀が終わろうとしていた年のことだ。ミレニアムというラテン語源の言葉が巷(ちまた)にあふれていた。
 世紀の変わり目には、なんらかのプログラムの不具合でコンピュータが誤作動し、核ミサイルが発射されると吹聴(ふいちょう)されていた。わたしのまわりでは、大学のエレベータに閉じこめられることや、アパートのキッチンのガスコンロが使えなくなるといった、小さな噂話のほうを心配していた。
 そんな世紀末の目撃者になろうと友人のだれかがいいだして、2000年の最後の日は大学の近くの穴八幡宮(あなはちまんぐう)の境内に集まっていた。近くの寺で除夜の鐘を百八ツすべてつき終える時刻には、米露の核戦争のことなどきれいさっぱり忘れていたものだった。

 世界の本質からかけ離れたことでも、そうした空気に怯(おび)える者たちが解放された安堵(あんど)感にうわついていた。20世紀はかび臭い歴史の書庫にしまわれ、輝かしい新世紀の扉が開いたかのようであった。あのころのわたしはまだ未熟だったが、20世紀の最後に大学のある講義で聴いたことにとらわれていた。
 わたしは、露文科の3年生だった。その講座は前期の半年だけ聴講すれば2単位になるし、講師が学外から招かれたジャーナリストというのに惹(ひ)かれて受講した。紛争取材が専門のようで、ちょうどロシア南部ではじまった戦争から戻ったばかりだった。

 「みなさんはチェチェンという小さな国を知っていますか。そこでは、人間の思いつくかぎりの非道がまかり通っている。世界の真の残虐性は覆い隠されているのです。白日(はくじつ)のもとに曝(さら)された残虐(ざんぎゃく)は、新しい戦争のはじまりの口実にすぎません……」
 と、そのようなことを講師はいった。

 落ち着いた声で、淡々と戦争の罪科の目録を数えあげた。罪は罰を受け、罰はより残忍な罪を孕(はら)むと、鎌倉新仏教の青年僧のごとく天と地を切り分けた。異空間から降臨したこの人を眺めて、学生はいかにも頼りなく、所在なさげに沈黙しているのだった。
 わたしの脳裏に、チェチェンという単語の残響が強い刺激を与えていた。祖父の膝に抱かれて聞いた日から、無数の脳細胞にそっとかくまわれてきた記憶の引き出しが開いて、しっかり形ある姿を見せようとしていた。

 それから、ミレニアム騒ぎは元日の朝までに切りあげ、仲間と別れて新宿駅から逗子行きの電車に乗った。
 小1時間ほどで鎌倉におりて、鶴ヶ岡八幡宮への初詣の列に混じって、お宮の裏手にある生家まで歩いた。家の土蔵のなかに、祖父が書き残した手記が遺品として保管されていると、父から聞いたのを思いだしていた。それから、正月のすべての時間を費やして、祖父の備忘録(びぼうろく)をむさぼり読んでいった。

◇◇

 わたしはいまでは、はるか遠い異国の地にいる。テロリストから与えられた粗末なノートブックと鉛筆で、この物語を君のために書き残そうと思う。たぶん、最期の書き置きを……

 祖父の手記をよすがにして、それからわたしが体験してきたことの記憶を重ねあわせて、君には、わたしたち一族のことを理解してほしい。まずもって知っておいてほしいのは、わたしの祖父が生きてきた歴史のことだ。いささか重い話だが、どうか忍耐して読んでもらいたい。
 祖父の名は、東御門(ひがしみかど)達夫という。かつて現人神(あらひとがみ)と呼ばれた天皇が崩御(ほうぎょ)してまもない1990年に、72歳で没した。昭和という時代とともに生を閉じるのが、あたりまえであるかのような静かな最期だった。21世紀の到来を見ることはなかったが、いま思えば、祖父にはそれでよかったのだ。
 祖父は、御門流(みかどりゅう)の能狂言師だった。17世紀からつづく流派の宗家(そうけ)の長男に生まれたのだった。

 曾祖父が家元であった戦前に、戸山の陸軍軍医学校を終えた祖父は、大日本帝国が侵略した中国東北部に渡った。そこは満州国と命名されていた。新国家の首都、新京の軍司令部に配属された。祖父はまもなくして、曾祖父の選んだ女性を内地から娶(めと)った。
 そのころ中国では共産党が勢力を増し、帝国陸軍は毛沢東(もうたくとう)の八路軍(はちろぐん)のゲリラ攻撃に苦しめられた。アメリカと戦端が開かれると、はじめこそ南太平洋からインド洋まで帝国の版図は広がったが、やがてじり貧になって極東の列島に原子爆弾が投下され、満州にはソビエトの機甲師団がなだれこんだ。
〈つづく〉

欧州の最高峰、カフカスのエルブルス山にかかる月 ©Yayimages/PIXTA
【チェチェン】 カスピ海と黒海にはさまれた北カフカスの地方。5000メートル級の峰々が連なる。いまはロシア連邦の一部だが、18世紀から独立紛争をつづけてきた。四国ほどの面積に約100万人が暮らし、大半がイスラム教を信仰している。写真=欧州の最高峰、カフカスのエルブルス山に浮かぶ月 ©Yayimages/PIXTA

横村 出
ジャーナリスト/作家
1962年生まれ。早稲田大学の大学院で比較政治を学んでから、朝日新聞社に入って記者として働く。ほどなくロシアのサンクトペテルブルク大学で言語文化を習う。その後、モスクワやアフリカに海外特派員として駐在しつつ、いくつかの戦争や革命、テロの現場を歩いた。2010年にフリーランスへ転身する。早稲田大学オープンカレッジでは「国際報道から読み解く世界」「戦場から読み解く世界とジャーナリズム」の2講座を開講している。江末壬(えすえ・じん)のペンネームで小説を執筆する。著書に『チェチェンの呪縛−紛争の淵源を読み解く』(岩波書店)など。

*Bee Mediaに掲載される筆者の記事は個人的見解に基づいて書かれています。© 2017-18 Izuru Yokomura