〝ロシア酒場〟

 松濤(しょうとう)の料亭をあとにした山﨑は、渋谷駅南口の雑居ビルに入っているロシアンバーへ立ち寄った。経営者がアラブ人だったから気安くしている。お気に入りのロシア人の若い娘もいた。
 とりあえずカウンターのスツールに腰かけて、煙草に火をつけた。頭のなかは熱いままだった。ふと、自分たち世代について考えをめぐらした。

 太平洋戦争に出征した兵士の子に生まれたものが少なくない。若いときは左右の思想闘争に熱をあげ、大量就職の荒波にもまれた。経済成長を下支えしてバブルに踊り、退職を迎えるころに日本経済が沈没した。これからさきは、長生きという宿命が待っている。
 団塊(だんかい)の世代は、明治の開国以来、戊辰(ぼしん)の内戦も含めて戦争をまったく知らないはじめての世代なのだ。それが、人生の最後に待ち受けていたのが、もしかしたら戦場であるとは、なんという皮肉だろう。

 白い煙をふっーと吐きだした。めまいがした。なんとかいう詩人が書いた一節が頭に浮かんだが、薄れる煙とともに消えてしまった。

GeraKTV / PIXTA
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 携帯電話が振動した。胸ポケットから取りだすと、LEDがうるさく点滅している。ディスプレイの数字に心あたりはなかった。
 「はい、山﨑……」
 「あっ、さっき助けてもらった者ですが……」
 一瞬、だれのことかわからなかった。
 「タクシーの運転手です。いま勤務が明けたもんで。まだ渋谷あたりにいるんでしたら、お礼に一杯どうかなと思って……」
 もうそんな時間であった。腕時計を見ると、午前1時近い。雑居ビルの裏口の場所を運転手に教えて、こっちにこないかと誘った。

 まもなく、運転手は現れた。外国人バーなど足を踏み入れたことがないらしく、遠慮がちにしている。山﨑が手招きすると、くの字型のソファの隅におずおずと収まった。まんなかにロシア娘が座って、酒の用意をはじめた。
 山﨑が聞いた。
 「あんた、さっきけられた腹は大丈夫か?」
 「たいしたことありません」
 運転手が腹のあたりをさすった。ひょろりと痩(や)せて腹もでていないが、もう還暦(かんれき)を迎えるという。荏柄(えがら)と名乗った。

 「いらっしゃい!」
 娘がウィンクして、荏柄の前に水割りのグラスを置いた。
 「こっちはオリガ。はるばる出稼ぎにきている」
 「よろしく、どうぞ」
 娘はきれいな日本語を話した。名は、オリガ・ガラエワといった。生まれはクリル諸島、つまり日本でいう北方領土(注1)の択捉(えとろふ)島だった。択捉島在住では日本のビザがおりないので、サハリン出身ということにしている。

 オリガは朗(ほが)らかな娘だった。
 「わたしの苗字も、ガラエです。似てますね?」
 「いや違うよ。おれは、エガラ。逆だろ」
 「なんだか、尻とりみたい……」

 山﨑はグラスの水割りを噴きだして笑った。オリガの話術のおかげで、不愉快な気持ちもなごんだ。
 荏柄は、ぽかんとした顔だった。山﨑がいった。

 「ふたりとも、ややこしいなぁ。運転手の荏柄(えがら)さんは、ガラさんと呼ぶことにしようや」
 「いやだわ。山﨑さんも、山ちゃんって呼ばれているでしょ?」
 「それが、なにか?」
 「あっ、知らないんだ。ロシアでは山のことをガラというのよ」
 「それじゃ、ヤマっていうと、ロシア語でなんの意味なんだい?」
 「穴よ」

 こんどは、荏柄も笑いだした。山﨑は感心している。
 「オリガは、ほんとに日本語が達者だね。それじゃ、おれのことはアナさんとでも呼んでくれよ。ところでガラさん、さっきはなんで殴られていたんだ? 徴兵がどうしたとかで、もめたんだよな?」
 「生意気なガキでして。ばかにしやがって」
 オリガは興味津々(きょうみしんしん)だ。
 「ちょっとオリガ、ウォッカを持ってきてくれるか?」

 ふたりきりになったところで、荏柄に聞いてみた。
 「ガラさん、あんた自分でやってみせようとは思わないか」
 「えっ、どういう意味ですか?」
 「おまえさんはおれよりちょっと年下だけど、同じ世代だろ。自分たちだって戦争はもちろん、徴兵なんてことにも縁がなかった。なんで、若いやつらだけ徴兵すればまともになると考えるんだ?」
 「だって、偉い人がみんなそういうから。大企業や官庁のお偉いさんを宅送(たくおく)りに乗っけると、いまの若い者はなってないから日本も徴兵が必要だって、酔っぱらうと本音がでるぜ」
 言葉が口をついてでた。
 「そこだよ。口さきだけなら、なんとでもいえるさ。なら、あんたが自分でやってみせたらどうなんだ」
 「おいらはもう、孫のいるじじいだよ」
 荏柄はあり得ないという顔をした。

 山崎は真顔だった。もういいかげんな歳になっても、自分だけ安全な高みにいて采配をふるいたがる者が許せなかった。借りもののイデオロギーではなく、むろん愛国心でもない。ただ、そんな卑怯(ひきょう)なまねが嫌だった。
 ふたりはソファごと凍ったようだった。霜(しも)のついたウォッカグラスをふたつ運んできたオリガも、空気を察した。
 荏柄は、飲んだこともない強い酒をぐっとあおった。

注1 歯舞、色丹、択捉、国後の4島。日本のポツダム宣言受諾後、降伏文書調印の前後にかけソ連軍が占拠、ロシアが実効支配している。

横村 出
ジャーナリスト/作家
1962年生まれ。早稲田大学の大学院で比較政治を学んでから、朝日新聞社に入って記者として働く。ほどなくロシアのサンクトペテルブルク大学で言語文化を習う。その後、モスクワやアフリカに海外特派員として駐在しつつ、いくつかの戦争や革命、テロの現場を歩いた。2010年にフリーランスへ転身する。早稲田大学オープンカレッジでは「国際報道から読み解く世界」「戦場から読み解く世界とジャーナリズム」の2講座を開講している。江末壬(えすえ・じん)のペンネームで小説を執筆する。著書に『チェチェンの呪縛−紛争の淵源を読み解く』(岩波書店)など。

*Bee Mediaに掲載される筆者の記事は個人的見解に基づいて書かれています。© 2017-18 Izuru Yokomura