第10回〝赤いスーツの政治家〟

 山﨑は、「ぬくぬく引退できない」という言い方にカチンときた。盃の酒をぐっとあおって、秋谷をにらみつけた。

 と、荒垣が若女将に目配(めくば)せし、すっと席を立った。
 「わしは別件があるのでね。あとは腹を割って話してくれたまえ」
 「もうお帰りですの?」
 若女将が荒垣の見送りに連れ添った。秋谷と山﨑はふたりきりになった。

 秋谷のほうが機先(きせん)を制し、本題をずばっと切りだした。
 「国防に力を貸していただけませんか」
 「はぁ?」
 山﨑はさっぱり話が呑みこめない。秋谷はむろん真顔だ。

 「自衛隊には人材が足りないのです」
 「とおっしゃいますと、高齢者を自衛官募集案内所へでも派遣して、入隊希望の若者を増やしたいということですか?」
 「いいえ、あなたがたに入隊していただきたい」
 「えっ……。それはその、予備役として登録せよということで?」
 「はい。それも即応予備役として、最前線に立ってもらいたいのです」

BNP / PIXTA
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 あ然として、しばらく宙をにらむほかなかった。この男は正気だろうかと思った。筋書きが見えてこない。
 「そこまで自衛隊も人不足ですか。若者が入りたがらないとは聞いていましたが、だからといって、年寄りがなんの役に立つものですかねぇ」
 とてつもなく異常な考えを押しつけようとしているのではないかと、山﨑は疑っていた。

 廊下から衣擦(きぬず)れの音がする。若女将がもうひとり来客を案内してきた。
 「失礼……」という声がして、すっと障子が開いた。

 アンリ・マティスの絵からぬけだしたかの、赤いカシミアのスーツをまとった女だった。胸には、菊花(きっか)模様の金バッジが光っている。
 「おじゃまかしら……。熱を帯びているわね。太郎さん、理屈のごり押しはだめよ」
 女は、美波(みなみ)しずかと名乗った。筆書きの名刺を山﨑にさしだした。さきほどまで荒垣がいたところに座って、秋谷と山﨑の顔を交互に見ている。

 秋谷がいった。
 「美波先生は、国家安全保障担当の首相補佐官です。わが国の周辺事態への対応を早急に整備する任にあたられています」
 「あら、先生と呼ぶのはやめてちょうだい」
 しずかは、まんざらでもなさそうだ。

 山﨑は小首を傾げている。ふたりはじっ懇(こん)の仲であろうと踏んだ。しずかは若づくりに装っているが、秋谷とは同年代に見えた。
 「わが国周辺というのは、もめている熱島(あつしま)のことで?」
 「まあ、そんなところね」
 しずかは、確かめるような目つきをした。
 「太郎さんから話は聞いたわね。これは政府方針なんです」
 「なに? 国会の議論もなしに、高齢者を自衛隊に招集するのですか」
 山﨑は語気を強めた。

 しずかの高飛車(たかびしゃ)な調子をたしなめるように、秋谷がいった。
 「招集ではないのです。あくまでも国民の活用ということです」
 「国会のことだけど、いずれは法案として提出します。いまは与党が絶対多数を握っているから可決は間違いないわ」
 山﨑は、少しずつ読めてきた。
 「うちから手をつけるのですか?」
 秋谷としずかが目を見あわせ、こっくりうなずいた。

 荒垣と秋谷はつながっているし、秋谷と美波しずかは一心同体だ。荒垣はいったいなにを考えているのか、と思案した。

 秋谷がさりげなくいった。
 「荒垣会長の了解はいただいております」
 「そんなことでしょうね。いま、組合と難しい交渉をしていることもごぞんじで?」
 「ええ。内々の情報ですが、ことは急を要するかもしれません」
 「切迫していると?」

 秋谷は黙したままであった。
 山﨑はその真意を測りかねた。そのさきに策略をめぐらしているように思えてならなかった。

横村 出
ジャーナリスト/作家
1962年生まれ。早稲田大学の大学院で比較政治を学んでから、朝日新聞社に入って記者として働く。ほどなくロシアのサンクトペテルブルク大学で言語文化を習う。その後、モスクワやアフリカに海外特派員として駐在しつつ、いくつかの戦争や革命、テロの現場を歩いた。2010年にフリーランスへ転身する。早稲田大学オープンカレッジでは「国際報道から読み解く世界」「戦場から読み解く世界とジャーナリズム」の2講座を開講している。江末壬(えすえ・じん)のペンネームで小説を執筆する。著書に『チェチェンの呪縛−紛争の淵源を読み解く』(岩波書店)など。

*Bee Mediaに掲載される筆者の記事は個人的見解に基づいて書かれています。© 2017-18 Izuru Yokomura