第8回〝労働組合のボス〟

 帝国建設の本社は、煉瓦(れんが)建ての東京駅を見おろす高層ビルの25階から38階までを占めている。帝国地所の持ちビルで、戦後まもなく改築された旧館の上に、ガラス張りの高層館を建てあげるプロジェクトは、荒垣(あらがき)が仕切ったのだった。

 バブル崩壊のあおりで、グループ創立以来となる巨額の損失を抱え経営危機に陥ったころだ。意気消沈する経営陣のなかで、荒垣がひとり奔走(ほんそう)した。
 太政党(たいせいとう)の有力議員や副知事だった戸次(とつぎ)への働きかけが実って、ビルの容積率の大幅な規制緩和を獲得できた。利下げの波にもいち早く乗って低利で資金を調達し、土地投機で荒れた街を再生する足がかりをつかんだ。
 とくに首都の玄関口の再開発はたちまち脚光をあび、荒垣は時の人になっていた。戸次ら保守派の重鎮とも深い絆(きずな)で結ばれた。

 「きょうは、組合との団体交渉だったな。山﨑君は出席するね?」
 東京駅のドームを見おろす会長室で、荒垣が秘書の佐島(さじま)に聞いた。
 「はい、そのようです」
 「で、議題はなんだ?」
 「定年制延長と再雇用の問題です」
 「そうか……。難問だな」

 椅子の背もたれをぐっと倒して、荒垣は会長室に鎮座する胸像をにらんだ。帝国グループの開祖、扇谷(おうぎや)弥次郎のブロンズである。荒垣の胸のうちには、秋谷が持ちこんだ案件がある。「さぁて、弥次郎さんならどうする?」と、心の声で問いかけた。

 佐島が、組合の方針をレクチャーした。
 「60歳でいったん解雇し、契約社員として再雇用するという定年延長のやり方は、断固認めないと主張しています。正社員のままで65歳に定年を延長せよ、という難題をふっかけています」
 「ばかなことをいう。はっきりいって、わが社では、45歳より上の社員には働き以上の給料を払っているんだよ。しかも、団塊(だんかい)の世代(注1)につづいてバブル入社組(注2)が引退するころには、退職金だけでもとんでもない額になる。こんなご時勢に、組合はまだ幻想を抱いているのかね!」
 口もとから白い泡が飛んだ。

BNP/PIXTA
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 組合と経営側との団交室は、役員フロアのすぐ下の36階だった。このごろの団交は、煙幕がたちこめ怒号が飛びかう雰囲気ではない。柔らかいカーペットを張った部屋に木目調の丸テーブルが置かれ、花瓶(かびん)が飾られている。

 執行役員の山﨑は、15分前にはその部屋に入った。まだ誰もいない。空気清浄機からもれるオゾン臭がした。窓ぎわにたたずんで腕ぐみをした。眼下に帝国建設が手がける再開発街区が広がり、そのさきに国会議事堂のピラミッド型の屋根が光っている。
 昨晩、山﨑は、荒垣に呼びだされていた。そこで、防衛省の秋谷(あきや)太郎という官僚に会ったことが、彼の頭から離れなかった。

 組合側がぞろぞろ入室してきた。岩田一雄委員長が最後に姿を見せて、山﨑に軽く会釈(えしゃく)した。岩田は技術屋で、山﨑とおなじ世代の後輩だ。中東のクウェートに赴任して山﨑と苦楽をともにした仲だった。小柄ながら精かんな体つきをして、鋭い目はいつも用心深かった。

 「そろったようですから、はじめましょう」

 進行役の佐島が口火を切った。経営側から、社長の宮ノ下(みやのした)、労務担当の仙石(せんごく)、再雇用担当の山﨑が出席した。組合からは、岩田と書記ら5人がテーブルを囲んでいた。
 かつての帝国労組(ろうそ)といえば、末端の建設作業員まで動員できるほどの大きな組織だった。それが、経営再建で現業部門は分社化され、非正規が増えた。雇用を守るという会社の言い分に押し切られ、組合は分断されてかつての勢いを失っていた。

 岩田は、いきなり本題から切りだした。
 「これからの定年延長にあたっては、65歳まで待遇を維持するということでお願いしたい。パート扱いは認めません」
 組合員の減少に歯どめをかけるだけでなく、政府が画策している年金支給年齢の引き上げへの対抗策でもあった。
 宮ノ下社長ら経営陣は、岩田の一本調子な口ぶりに苦笑した。山﨑だけが淡々としている。

 岩田は、山﨑を真正面から見すえた。
 「再雇用の責任者としての見解をうかがいたい!」
 その言質(げんち)を取りたかった。
 「社員の老後を心配する気持ちはよくわかります。そうであれば、みなさんの暮らしを守るという観点から考えたい。雇用の形態にこだわらず、給与の実をともなえばよいのではないですか?」
 岩田は肩すかしをくらって、拍子抜(ひょうしぬ)けの顔である。

 潮目を見計らった佐島が、牽制球(けんせいきゅう)を放った。
 「まあまあ。交渉は緒(ちょ)についたばかりなのですから、じっくり煮つめましょうや」
 その日の団交は、平行線のまま双方に収穫はなかった。山﨑が口にした「暮らしを守る」という約束だけが、つぎの交渉への希望をつないだ。

 退席しようとする岩田委員長の背中を、山﨑がそっとたたいた。

 「岩田。近々、ひさしぶりに一献(いっこん)どうだろう?」
 「山忠(やまちゅう)さんまで、組合つぶしの懐柔工作ですか? でも、あなたがそんな人じゃないことは、わたしが一番よく知っている。差しで会おうというならば、お受けしましょう」
 山﨑に一目おく同僚たちはみな、彼を〝山忠〟と呼んでいた。
 「望むところさ。じゃ、あさっての晩にでも」

 ふたりは約束して別れた。山﨑は、秋谷から聞かされたことがまだ頭から離れなかった。岩田の耳にも入れておこうと考えていた。

(注1)作家堺屋太一の命名。1947〜49年生まれで、出生数約800万人。初の戦後世代。
(注2)1986〜91年に就職した世代。65〜74年生まれをバブル世代ともいうが、泡に踊ったのはより上の世代だった。

横村 出
ジャーナリスト/作家
1962年生まれ。早稲田大学の大学院で比較政治を学んでから、朝日新聞社に入って記者として働く。ほどなくロシアのサンクトペテルブルク大学で言語文化を習う。その後、モスクワやアフリカに海外特派員として駐在しつつ、いくつかの戦争や革命、テロの現場を歩いた。2010年にフリーランスへ転身する。早稲田大学オープンカレッジでは「国際報道から読み解く世界」「戦場から読み解く世界とジャーナリズム」の2講座を開講している。江末壬(えすえ・じん)のペンネームで小説を執筆する。著書に『チェチェンの呪縛−紛争の淵源を読み解く』(岩波書店)など。

*Bee Mediaに掲載される筆者の記事は個人的見解に基づいて書かれています。© 2017-18 Izuru Yokomura