第6回〝赤紙〟

 大黒こと、田所たけしの家は、古くからの漁師街の坂ノ下(さかのした)にあった。鎌倉時代にはすでに、極楽寺(ごくらくじ)の庇護(ひご)のもとで漁業をしていたという。その極楽寺の切り通しをくだって、さほど浜から離れていないところだった。このあたりの海は庭の池のようなものだ。

 大黒の父、田所勝利(かつとし)は、関東大震災の津波が鎌倉を襲った年に生まれた。尋常小学校を終えて漁師の見習いをしていたが、18歳のときにアメリカと戦争がはじまって、20歳で陸軍に徴兵された。そのときの話は、死んだ祖母、つまり田所勝利の母親からなんども聞かされたものだった。
 招集のあった日は、ちょうど、ラジオの大本営発表(注1)が、「山本五十六(いそろく)連合艦隊司令長官はブーゲンビル島にて栄誉の戦死を遂(と)げたり」と放送していた。戦局は悪化する一方で、北方のアッツ島で日本軍が壊滅した年でもあった。玉砕(ぎょくさい)というまやかし(注2)がねつ造され、見殺しであっても美化されていった。

 鎌倉の海はおだやかに凪(な)いでいたという。

 由比ヶ浜の沖に船を浮かべて網を引いていた田所勝利は、稲瀬川(いなせがわ)の河口のあたりに立ってしきりに手をふる母の小さな姿を見た。
 母は息子の漁が終わるまで、浜辺にたたずんでいた。

 「かあちゃん、どうしたんだ?」
 勝利は、額から流れ落ちる汗をぬぐった。母は、白いかっぽう着と紺色のもんぺを身につけ、絣(かすり)の手ぬぐいを髪に巻いていた。その顔は、稲村ヶ崎の淵の色よりも碧暗(あおぐら)く曇っていた。
 「とうとうきたよ。赤紙(あかがみ)だ」(注3)

 赤紙招集……。そのころの国民男子は、45歳までならみんなが兵役にあてはまった。いちおう身体検査はあったが、戦争の末期には多少の不健康など兵役免除の理由にはならなかった。訓練もそこそこに、満蒙(まんもう)や南方の戦地へ送りだされていった。

 「そうか。この網を片(かた)してから、出征(しゅっせい)の用意するから」
 勝利はそっけなかった。戦争があたりまえの時代だった。

 つぎの日にはもう、母が用意した帆布(はんぷ)のリュックをしょって、海軍電車と呼ばれた横須賀線に乗って代々木ノ原の練兵場(れんぺいじょう)へ向かうことになった。その別れぎわ、鎌倉駅のホームで、母は涙をこらえてうつむいていた。黒いおんぶひもで母に背負われた末の弟だけが、大声をあげて泣いた。ほかの見送りの人たちは熱に浮かされていた。

 町内の愛国婦人会がつくった必勝祈願の千人針(せんにんばり)が手わたされた。坂ノ下の漁師仲間は、旭日を描いた紅白の大漁旗を駅頭でふった。愛国婦人会の女性は目をつりあげていった。
 「田所勝利君、お国のために奮戦なさい!」

Tintin75 / PIXTA
©Tintin75/PIXTA

 日の丸がぱたぱた鳴った。そのころの国家は、憑(つ)かれたように下り坂を落ちていた。出征するということは〝生きて虜囚(りょしゅう)の恥ずかしめを受けず〟(注4)という戦陣訓(せんじんくん)の文字どおり、突撃するか、それとも自決かの選択しかなかったのだ。

 母だけは、胸の前に手をあわせていた。汽車の窓ごしに、「生きて帰ってきて……」と、そっと口もとを動かしたように見えた。入れ違いで到着した下り列車から、白木の箱を布に包んで首からぶらさげた軍服の一団がおりてきた。出征を見送った人々がホームの反対側に整列して、深々と頭をさげて遺骨の列を迎えていた。

 勝利はそれから南方へ送られて死線をさまようことになったが、ひたすら母の掌の温もりだけを思って生きのびた。日本が戦争に負けてしばらくして、ひょっこりと坂ノ下の浜に帰ってきた。捕虜(ほりょ)になって、フィリピンの収容所でしばらく働かされたらしかった。勝利は、戦場で左腕を失っていた。

 母が息子にまっさきに聞いたのは、「おまえ、だれかをあやめたり、傷つけたりしなかったかい?」ということだった。
 勝利は、ぽつりといった。
 「飢(う)えと戦ってきた……」

 母は勝利が出征してから、毎日のように坂ノ下の鎮守に詣でていた。神仏を敬ってきた母は、それから亡くなるまで熱心に寺社に奉仕した。片腕がないために、勝利は漁ではずいぶん苦労をした。60歳すぎまで漁師をつづけて、奇しくも昭和の終焉(しゅうえん)とともに脳卒中でぽっくり死んだ。

 父は、戦争の経験をほとんど語らない人だった。

 ひとつだけ、子ども心に刻まれた記憶がある。ある夏のお盆のころだった。勝利は縁側に座って夕涼みをしていた。酒には弱かったのにめずらしくビールを飲んで、もの思いにふけっていた。
 ぼそっといった。
 「戦争というのはなぁ、じつにむごいものだ。人間にそんなことができるかということまで、平気でやるようになる……」

(注1)日本軍の最高統帥機関の発表。軍人・官僚・組織の保身のための虚偽虚飾、日本語の機微を巧みに操ったすり替え。
(注2)1943年、アリューシャン列島アッツ島で日本軍が壊滅した際に大本営が用いた表現。実態は作戦失敗、兵の見殺しだった。
(注3)日本軍の大半の招集令状の俗称。紙の色から命名。警官や役場の兵事係が「おめでとうございます」と口上を述べ配達していた。
(注4)東条英機が発した陸軍訓令。戦場での軍人の規律や死生観の訓示だが、大局で破綻した戦争では自己犠牲の強要。

横村 出
ジャーナリスト/作家
1962年生まれ。早稲田大学の大学院で比較政治を学んでから、朝日新聞社に入って記者として働く。ほどなくロシアのサンクトペテルブルク大学で言語文化を習う。その後、モスクワやアフリカに海外特派員として駐在しつつ、いくつかの戦争や革命、テロの現場を歩いた。2010年にフリーランスへ転身する。早稲田大学オープンカレッジでは「国際報道から読み解く世界」「戦場から読み解く世界とジャーナリズム」の2講座を開講している。江末壬(えすえ・じん)のペンネームで小説を執筆する。著書に『チェチェンの呪縛−紛争の淵源を読み解く』(岩波書店)など。

*Bee Mediaに掲載される筆者の記事は個人的見解に基づいて書かれています。© 2017-18 Izuru Yokomura