第4回〝出会い〟

 渋谷から恵比寿までが、タクシー運転手の荏柄(えがら)の縄張りだった。千鳥足(ちどりあし)の中年客を乗せれば、世田谷か杉並あたりか。運がよければ、松濤(しょうとう)の高級店から無線が入る。そうなれば、最短でも横浜までのロングだ。鎌倉、熱海までなんてこともある。今夜は期待をこめて、109交差点から道玄坂へ流した。

 ところが、円山(まるやま)町のホテル街からカップルがでてきた。男のほうが手をあげている。この手の客は筋が悪かった。荏柄(えがら)はアクセルをぐっと踏みこんだ。急ぐふりをしてやりすごそうとしたら、いきなり男が道路に飛びだしてきた。
 ブレーキが鋭く鳴った。反動で荏柄はシートに背中をうった。背もたれには木製の指圧マットがあったから、けっこう痛かった。

 助手席側のウィンドウをするするおろして、
 「危ないじゃないか!」
 といった。
 若い男が、後部ドアをどんどんたたいた。しかたないと、荏柄はあきらめることにした。レバーを操作してドアをあけてやった。
 女を奥のシートに滑らせて、男が乗りこんできた。
 「ひき殺す気かよ!」
 「あっ、気がつかなかったものですから。すんません」

 乗車拒否ではなくても、カップルを無視したのは確かだったから、荏柄はしぶしぶ謝った。ちっと舌うちして、男も矛(ほこ)を鞘(さや)におさめた。蒲田のほうへ行け、と生意気な口のきき方をした。
 ルームミラー越しにカップルをちらちら観察した。男は20代だろう。いまふうに刈った髪をつんつん立てている。女は17、8の娘に見える。茶髪を指さきで巻き直している。酒臭かった。

 荏柄はこのごろの若者が嫌いだった。自分が同じ年ごろには、タクシーに乗るなどありえなかった。新山手通りまではおとなしかったが、男のほうに盛りが戻って娘の胸もとに手を入れはじめた。そのうちにミラーのなかで荏柄と目線があった。説教のひとつもしたくなった。
 「お客さん、控えてもらえませんか?」
 「るせえ、じじい!」
 荏柄はついに頭に血がのぼった。キレやすいたちだった。路肩に車を停車し、ドアをあけて怒鳴った。
 「おりろ!」
 かえす刀で、もうひと刺ししたくなった。
 「おまえみたいなのは、徴兵されてしまえ。軍隊にぶちこんで厳しく鍛えないと、使いものにならん」
 「上等じゃねえか」

BNP / PIXTA
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 若い男は、運転席のシートの背を激しくけりあげた。舐(な)められたとでも思ったのだろう。ここは、車から離れるのがよいかもしれないと、ドアハンドルに手をのばしたときだった。
 すばやく外へでた男が、運転席のドアをあけて荏柄を引きずりだした。相手は上背があって、荏柄の首のうしろから上着の襟(えり)をつかんだ。したたかにけりあげられ、歩道に倒れこんだ。男のブーツのつまさきに鉄でもはめてあるのか、腹にひどい鈍痛がした。

 大きな声が響いた。
 「なにしてる!」
 がっちりした体格の熟年男が、かけ寄ってきた。浅黒く日焼けしている。酔ってふらつく若者のパンチをかわし、腕をうしろ手にひねりあげた。頭を側溝にはめて身動きがとれないようにした。
 浅黒い熟年男は、「警察を呼びましょう」といった。
 だが、荏柄は首を横にふった。乗客とひどいケンカになったことが会社に知れたら、即刻解雇される。そうなれば、明日から暮らしてゆけなかった。寂しい事情も、その熟年男は察したようだ。

 「若造、うせろ!」
 鋭く、威圧した。近くのコンビニから何人か飛びだしてきたが、熟年男は「なんでもありません」といって、野次馬(やじうま)を退散させた。荏柄はようやく立ちあがった。ごま塩の髪をかきながら、
 「ありがとうございました。命びろいしました」
 と、精一杯頭をさげた。
 「なにがあったんです? 徴兵がどうしたとか聞こえたんだが」
 「いえ、たいしたことじゃありません。わたしがちょっと挑発したもんで。おまえみたいなのは、徴兵されちまえって」
 「はーん」

 その熟年男は、腕を組んであきれたような顔をした。
 荏柄は名前をたずねた。男は名刺をよこした。「なにかめんどうなことになったら、わたしが証人になる」といって、立ち去った。

 名刺には、
 〝帝国建設執行役員 山﨑忠義〟
 と記されていた。

 「一流企業のお偉いさんにしちゃあ、めっぽうけんかが強かったなぁ」
 まるで狐(きつね)につままれたような気分だった。

横村 出
ジャーナリスト/作家
1962年生まれ。早稲田大学の大学院で比較政治を学んでから、朝日新聞社に入って記者として働く。ほどなくロシアのサンクトペテルブルク大学で言語文化を習う。その後、モスクワやアフリカに海外特派員として駐在しつつ、いくつかの戦争や革命、テロの現場を歩いた。2010年にフリーランスへ転身する。早稲田大学オープンカレッジでは「国際報道から読み解く世界」「戦場から読み解く世界とジャーナリズム」の2講座を開講している。江末壬(えすえ・じん)のペンネームで小説を執筆する。著書に『チェチェンの呪縛−紛争の淵源を読み解く』(岩波書店)など。

*Bee Mediaに掲載される筆者の記事は個人的見解に基づいて書かれています。© 2017-18 Izuru Yokomura