未来の息吹感じるシンボル

 今年は、明治維新から150年にあたる。長い歴史からみればわずかな時間でも、都市の景観はめまぐるしく変わった。戊辰の戦乱も、太平洋戦争の戦火も免れたはずの古都鎌倉ですら、その例外ではない。

 明治になってまもなく、鎌倉は保養地として脚光を浴びた。相模湾に接する穏やかな気候が健康によいと広めたのは、医師の長与専斎である。その長与の発案で、1887年(明治20年)海濱(かいひん)ホテルの前身の海濱院が開館した。現代の〝医療ツーリズム〟の先駆けとなる日本初のサナトリウム・リゾートだった。
 これが評判を呼び、香港、上海、遠くインドシナやマレー半島の植民地に駐在する外国人が保養のために鎌倉へやってきた。海ぞいの土地には、ときの有力者が別荘や邸宅を構えていった。時代の導き手となった海濱ホテルであるが、その建物も、一帯の黒松林も、いまでは見ることができない。

 海濱ホテルがあった場所は、若宮大路が海ぞいの国道134号と交わる西側、海から見ると鎌倉の真正面になる。当時は国道などなく、浜辺にそのままつながる広大な敷地に、ジョサイア・コンドルの設計で海濱院ホテルとして改築された。近代日本を代表する名建築のひとつである(注1)。両翼を海へ広げた壮麗な姿からは、さぞグローバルな息吹が感じられたに違いない。

 夏目漱石は、小説『こころ』の冒頭で、こんなふうに描写している。

 〝私が先生と知り合いになったのは鎌倉である。…中略… 私はその二日前に由井が浜(原文のまま)まで行って、砂の上にしゃがみながら、長い間西洋人の海へ入る様子を眺めていた。私の尻をおろした所は少し小高い丘の上で、そのすぐ傍がホテルの裏口になっていた〟

鎌倉海濱ホテル
鎌倉海濱ホテル2
海側から見た鎌倉海濱ホテル(上)由比ヶ浜へ通じる裏口。漱石が描いた場所かもしれない(下)いずれも明治〜大正期の手彩色絵葉書

都市文化を共有するリゾート

 〝かいひんホテル、フフ / 棕櫚(しゅろ)の葉をくぐる夜風、フフ〟
 井上陽水の〝リバーサイドホテル〟を想わせるほど斬新な詩だが、大正期に発表されている(注2)。谷崎潤一郎は、先端をゆく女性を描いた『痴人の愛』のなかで、海濱ホテルの堂々としたオーラを書きとめた。〝日本バレエの母〟と呼ばれたパブロワが踊り、世界的なオペラ歌手シャリアピンが独唱したのも、ここだった。

 1923年(大正12年)の関東大震災の津波のときには、海濱ホテルはやや高台に建っていたために難を逃れている。当時の空撮写真で見ると、鎌倉を襲った津波はホテルの敷地の手前でとまった。右側の食堂棟は倒壊しているが、コンドルが設計した本館は残っている様子がわかる。
 ちょうどこの時期の鎌倉で幼少期をすごし、のちにフランソワーズ・サガンの翻訳で知られる朝吹登水子は、こんな記憶を書き残した。

 〝昔の由比ヶ浜は海岸線の白浜から松林があり、その中をぬけると、別荘が建ち並ぶ海岸通りに出るようになっていた。…中略… 時には、マナーを学ぶため、隣の海濱ホテルのティーに行った。海濱ホテルは、これまたイギリス風の茶の木材と白壁のハーフ・ティンバー様式の建築で、板張り床の大きな食堂があった〟(注3)

 鎌倉には、前田家別邸(現鎌倉文学館)や華頂宮邸をはじめ近代建築遺産がいくつか現存する。だが、海濱ホテルは最も規模が大きいだけでなく、リゾート風の落ちついたライフスタイル、オペラや舞踏などの芸術、服飾から食文化にいたるまで、その時代と社会に格別な影響を与えたことが史料からもうかがえる。

 急激な近代化で早くも公害が広まっていた東京を離れ、鎌倉を社交場にして最先端の都市文化を共有し、深めていったのではなかろうか。都市と地方が互いに補完しあって、よりよい未来を指向する関係である。例えるなら、ニューヨークと海辺のハンプトン、ロンドンとブライトンのようなものだ。

関東大震災直後の空撮写真
関東大震災直後の空撮写真、黒い点印のある大きな建物が海濱ホテル。敷地は、黒松の林から由比ヶ浜海岸(左下)までつづいている(1923年9月9日、旧海軍航空隊撮影・防衛省所蔵)

暗転する歴史、時代写す陳腐さ

 輝いていた時代が暗転するのは、太平洋戦争の敗戦がきっかけだ。進駐軍によって海濱ホテルは接収される。みごとな松の大木はあっけなく切られ、敷地には米兵が保養するコッテージが建った。
 接収まもない1945年(昭和20年)のクリスマスのことである。海濱ホテルにいた米兵の失火によって、近代鎌倉を象徴する建物が焼け落ちてしまった。

 その先の変ぼうは、高度成長を突っ走る日本自らが招いた。稲村ヶ崎の一部を崩して有料道路(現国道134号)を通し、海ぞいの松林は跡形もなく消えた。ただ、かつて海濱ホテルの本館が建っていた広い敷地(約17000平方メートル)だけは、奇跡的に手つかずのまま残った。ホテルの焼失後に土地を手に入れた企業が、テニスクラブにしていたおかげだった。

 かろうじて残ったこの跡地に、現在、スーパーのチェーン店が入る大型ショッピングセンターが建設されようとしている。ビルの屋上などに159台収容の駐車場を併設し、小分割した土地にはマンションも建てるという。都心に本社がある2社の事業計画によると、2019年末の竣工を目指している。

 三方を山に囲まれる鎌倉で、この景観がいまも残るのは、決して偶然ではない。鎌倉の外側から見ればすぐにわかるが、山頂近くまで開発が迫っている。内側に自然が残ったのは、1960年代に鎌倉からはじまった日本版〝ナショナルトラスト〟運動の成果だ。地元の作家、大佛(おさらぎ)次郎らの呼びかけで、市民や自治体が動いたからだった。せっかく山並みは守ったというのに、いまや、海側から景観が変えられようとしている。

 失われた黒松の林を復活させ、静かな浜辺の環境を守り、海風に鳴る松籟(しょうらい)に耳を澄ますような鎌倉を取り戻そうと、地道に活動してきた地元の人たちの願いが絶たれようとしている(注4)。かつて海濱ホテルが果たしたように、地元と都市生活者に文化と安らぎをもたらす場所を再興しようという夢も、このままでは頓挫(とんざ)しそうである。

 この150年の歴史の間に豊かさを手に入れながら、未来を描く力を失ったのではないか。陳腐(ちんぷ)という言葉には「価値を無にする」という意味もある。現代の開発の青写真は、ビジョンもリーダーシップもない時代の空虚さを写す鏡なのだろう。

海濱ホテル跡地
現在の鎌倉海濱ホテル跡地。写真手前の北側にかつて正門があり、写真奥の海辺までが敷地だった(2018年6月1日撮影)Photo©Izuru Yokomura
開発地図
敷地見取り図
由比ヶ浜地区・赤の範囲が計画地(上)商業施設とマンションの見取り図(下)鎌倉市公示資料より

注1 リンク 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ
注2 佐藤惣之助編纂の詩集『詩之家』(1926年)より、渡辺修三の作品
注3 朝吹登水子著『私の東京物語』(文化出版局)
注4 リンク THINK YUIGAHAMA(地域住民有志によるWEBサイト)

*海濱ホテルの歴史的考察と史料は、鎌倉市中央図書館の平田恵美氏、地域研究家の島本千也氏の労作『鎌倉海濱ホテル』(2016年発行・私家版)に詳しい。

横村 出
ジャーナリスト/作家
1962年生まれ。早稲田大学の大学院で比較政治を学んでから、朝日新聞社に入って記者として働く。ほどなくロシアのサンクトペテルブルク大学で言語文化を習う。その後、モスクワやアフリカに海外特派員として駐在しつつ、いくつかの戦争や革命、テロの現場を歩いた。2010年にフリーランスへ転身する。早稲田大学オープンカレッジでは「国際報道から読み解く世界」「戦場から読み解く世界とジャーナリズム」の2講座を開講している。江末壬(えすえ・じん)のペンネームで小説を執筆する。著書に『チェチェンの呪縛−紛争の淵源を読み解く』(岩波書店)など。

*Bee Mediaに掲載される筆者の記事は個人的見解に基づいて書かれています。© 2017-18 Izuru Yokomura