山中に広がる異界のパノラマ

 鎌倉は海を正面に見て、うしろ三方を山に囲まれた天然の要害である。たいてい、こんなふうに学校の社会科で習う。ところが、鎌倉に住んで、このひとつながりの山稜を散策すると、いわゆる中世の軍事都市とは違う世界が見える。

 五月晴れのある日、鎌倉と逗子の境にある名越(なごえ)の山道を歩いた。ここには要塞都市の名残で〝切り通し〟と呼ばれる、鎌倉時代の狭い軍用道がある。馬1頭がようやくすり抜けられるほどに、岩壁を人力で切り削って通した道である。咲きはじめたアジサイやイワタバコの花をながめ、潮風にあたりながらしばらく行くと、忽然と、目の前に異界の景観が広がった。
 緑濃いひとつの丘の斜面に、無数の石窟が並んでいる。朽ちてはいるが、4〜5層の段状に150穴も整然と掘られているのだ。土に埋もれた部分を含めれば、かなりのスケールになろう。この凝灰砂岩に穿(うが)った石窟を、鎌倉では〝やぐら〟と呼ぶ。2LDKほどの広さのものから、子どもがようやく入れるサイズまでさまざまである。もともとは、仏舎利を納めた塔を〝くら〟といい、岩屋のくらがなまって〝やぐら〟になったともいわれる。

 つまりは武士や僧侶のための岩窟墓なのだが、その歴史、構造、文化を知れば、単なる遺物にとどまらない世界観が浮かんでくる。実は、こうしたやぐらは、鎌倉を取り巻く山稜に大規模なもので数箇所、中小のものは確認されただけで1200基、埋もれたものを含めれば数千基あるといわれるが、いまだその全容は解明されていない。

まんだら堂やぐら群(2018年5月撮影)
まんだら堂やぐら群
鎌倉時代の石切場跡、お猿畠の大切り岸
まんだら堂やぐら群(上中)鎌倉時代の石切場跡・お猿畠の大切り岸(下)2018年5月21日撮影

世界遺産登録へ再挑戦の切り札

 こうした光景から連想されるのは、石窟であれば中国の龍門や莫高窟、あるいはアフガニスタンのバーミヤンであり、いずれもユネスコの世界遺産に登録されている。石切場では、暫定リストに掲載されている南フランス・プロヴァンス地方に残るローマ時代の遺構がある。

 鎌倉は「武家の古都」として世界遺産への登録を目指したが、2013年に不記載、推薦の取り下げという残念な結果になった。その構成資産の中心は寺社仏閣であって、やぐらは派生的に加えられていた(注1)。再び挑戦となれば、いったん推薦を取り下げながらこの5月に世界遺産への登録が内定した天草や、平泉の例のように、新しい解釈の切り口や、普遍的かつ独自の存在であることを示さなければいけない。
 やぐらをめぐって学術的な面からはすでに、横浜・鎌倉・逗子世界遺産登録推進委員会と、中国・龍門石窟研究院とで共同研究がなされている。この研究に参加する鎌倉・浄光明寺執事の古田土俊一さんは、やぐらの系譜には中国の石窟文化が影響したと指摘する。「鎌倉時代に渡来した僧や、日本から入宋した僧との交流があった。なかでも、四川省の崖墓に着目している」という。

 たしかに浄光明寺に残るやぐらは、こうした研究を裏付けている。鎌倉駅の雑踏から離れて20分ほど。谷戸(やと)と呼ばれる鎌倉独特の地形の山ふところに抱かれ、寺とひとつになるような姿で中世のやぐらがたたずんでいる。そのなかに、石像を安置した「網引き地蔵やぐら」がある。
 地蔵の背中に正和二年(1313年)と銘が刻まれていて、鎌倉時代末期の造営とわかる。石ノミで削られた玄室の岩肌をよく見ると、天井の四隅に梁を通した穴があり、入口には扉の支柱を立てる溝もある。地蔵の真上は、天蓋とみられる円形の彫りこみがあった。玄室内は漆喰の壁が塗られ、彩色が施されていたのかもしれない。ここは、高位の人物の墳墓だけでなく、祭礼の場でもあった。中国の石窟がおもに寺院として機能した点で相似性がある。

浄光明寺の網引き地蔵やぐら(2018年4月撮影)
浄光明寺にある大規模なやぐら(非公開)
浄光明寺の網引き地蔵やぐら(上)やぐらのある庭園(下・非公開)2018年5月5日撮影

もののふの浄土を結界するやぐら

 こうしたやぐらは、鎌倉の建長寺、円覚寺、瑞泉寺、明月院など、ほかの名刹寺院でも見ることができる。やぐらの重要性にいち早く着目したのは、浄光明寺前住職の大三輪龍彦氏だった。考古学者でもあった大三輪氏は、日本の古代の墳墓とは、まったく別の文化であると喝破していた(注2)。

 鎌倉時代に多くの渡来僧が鎌倉へ来たが、なかでも北条時頼に招かれた四川出身の禅僧、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)は建長寺の開山である。こうした高僧によって石窟文化がもたらされ、やがて寺院と墳墓の両方の特徴を具有する鎌倉独特の様式に変わったと推定される。
 研究者の古田土さんは、やぐらが造営されている山の頂きに、大型の石塔が残っている点に注目している。鎌倉を囲む山々にはいまも、宝篋印塔(ほうきょういんとう)と呼ばれる石塔がある。つまり、やぐらと山頂の尖塔がひとつながりになってストゥーパ(仏塔)を構成、表現していると考えるのである。

 天然の要害であるがゆえに土地の狭い鎌倉にあって、市中に墳墓を造ることは禁じられていた。そのため、山の地形をうまく利用して自然の仏塔を表現したのではないか、と。古田土さんは、「中国から伝わった文化が、鎌倉ではその後も独特の広がりをみせた」と指摘している。
 そう考えてみると、武家の古都のたたずまいに新たな解釈が生まれる。騒乱と権力闘争が繰り広げられた鎌倉時代は、此岸と彼岸が混在しているようなものだった。乱世からの救いを求める〝破地獄〟のためには、世俗と浄土を結界する神聖な場が必要だった。仏門へ出家した武士(もののふ)や僧侶は現世で祈り、入滅してなおやぐらにあって安泰を祈ろうとしたのではなかろうか。

 昭和の時代に、鎌倉に暮らした批評家の小林秀雄は、死生観についての思索に多くの時間と紙幅を費やした。本居宣長を研究した著作のなかに、とても印象的な一節がある。

「死者は去るのではない。還って来ないのだ」(注3)

 ある種の達観であるが、世俗への救いでもある。死者はともにあるという思想が、武士(もののふ)の浄土である鎌倉を守り、支えてきたのかもしれないと思う。こうした着眼は、長くその土地に暮らしてこその実感であろう。
 やぐらと似た石窟は国内のほかの地方にも点在するが、圧倒的に鎌倉の山中に集中していて、いまも古都を光背のごとく見守っている。こうした小さな宇宙観は人類に普遍的でありながら、日本独自の精神文化を育んでいった。これまでやぐらを派生的にとらえてきた発想を逆転させたら、はたして世界は鎌倉をどのように見るのであろうか。

鎌倉遠景(2018年5月撮影)
鎌倉遠景(2018年5月21日撮影)All photos©Izuru Yokomura

注1 リンク 世界遺産への登録を目指して〜武家の古都鎌倉
注2 大三輪龍彦著『鎌倉のやぐら もののふの浄土』(かまくら春秋社)
注3 小林秀雄著『本居宣長』(新潮社)

横村 出
ジャーナリスト/作家
1962年生まれ。早稲田大学の大学院で比較政治を学んでから、朝日新聞社に入って記者として働く。ほどなくロシアのサンクトペテルブルク大学で言語文化を習う。その後、モスクワやアフリカに海外特派員として駐在しつつ、いくつかの戦争や革命、テロの現場を歩いた。2010年にフリーランスへ転身する。早稲田大学オープンカレッジでは「国際報道から読み解く世界」「戦場から読み解く世界とジャーナリズム」の2講座を開講している。江末壬(えすえ・じん)のペンネームで小説を執筆する。著書に『チェチェンの呪縛−紛争の淵源を読み解く』(岩波書店)など。

*Bee Mediaに掲載される筆者の記事は個人的見解に基づいて書かれています。© 2017-18 Izuru Yokomura