ジャーナリスティック・ノベル『剣(つるぎ)ノ舞』
第50回 〝剣ノ舞〟

 トントントン……と、太鼓の音が響いた。ノルベックが、ドゥールを抱えて叩きはじめたのだ。

 ノルベックが、わたしに問いかけた。
 「それで、君のお祖父さんの本職はなんだっけ?」
 「狂言師だよ」
 「それじゃ、君とおなじコメディアンってわけだ」
 「御門(みかど)の家は、もう400年も同じ職業をつづけているんだよ」
 「なんだって、そんなに長くコメディアンを…」
 太鼓を叩く手が、一瞬とまった。
 「コメディアンといっても、ときには舞うこともある」

 ミカドが小首を傾げている。興味を惹(ひ)かれたようだ。
 「君は舞踏(ぶとう)をやるのか……」
 わたしは心に決めていた。わたしの三番叟(さんばそう)を、日本の奉祝(ほうしゅく)の舞いを、この場所でミカドに見てもらいたかった。
 焚き火が燃えさかって宵闇(よいやみ)を照らしている。薪がはぜた。アマンも嫁も、孫のザーレマも手を休めて、みんながわたしを見守っている。

 わたしは静かに立ちあがって、しばし呼吸を整えた。ゆっくりした所作(しょさ)からはじめて、三番叟の揉(も)みの段を踏んだ。ここには、黒式尉(こくしきじょう)の面はない。謡(うた)いも囃子(はやし)もいない。孤高の舞いで異教の人々とあい通ずるかの勝負だった。

 「喜びありや、わがこの処(ところ)よりほかへはやらじとぞ思う……」

 わたしが腹の底から放った大音声(だいおんじょう)に、アマンが驚いた様子である。ミカドは息をつめて凝視している。
 父の言葉を思った。舞う意識をなくして軽やかに……
 火をぐるりとひとめぐりして、右の拳をカフカスの黒々した峰へ突きだした。左手を右肩に添えると、あたかも剣を振るうかのしぐさである。扇は持たない。指さきまで神経を張りつめた。足拍子に気をこめる。
 「ヨォー、ハッ!」
 両腕をそろえて前の闇を突く。風を切る音が鳴る。大きなしぐさで2度、3度。左手で着物の袖を肩へからげるしぐさをして、右腕で宙をつかむ。黒い翁(おきな)は死んでいるのだ。精神は肉体を離れ、神を演じようとしていた。
 力強く大地を踏みしめた。薪が崩れ落ちて、激しく火の粉を散らした。ふり注ぐ光の結晶を頭から浴びていた。わたしは、両腕を肩にのせてじりじりとあとずさった。ミカドの表情にちらっと笑みが浮かんだのを、見逃さなかった。あたかも、わたしが火を怖れたかのしぐさに見えたのであろう。
 その場でゆるりとまわってから、指す腕を炎のほうへかざした。わたしの視線はそのさきの異次元を見すえていた。
 「イェイ! イェイ!」
 鋭く叫びながら、一度、二度、斜めへ飛んだ。三度めの叫びとともに、高々とあがる火を飛び越えていた。鴉飛(からすと)びであった。

 ミカドがすくっと立って手を叩いた。わたしは狂おしかった。このチェチェンの人々の喜びを念じて舞っていた。この大地に眠る祖霊が憑依(ひょうい)したかの心地がしていた。
 アマンは感極まったかに見えた。
 「あなたが飛んだときに暗闇が消えた。まるで天国のように、まばゆく輝いて見えたのよ……」

 ノルベックが鋭くドゥーラを叩いた。はじめはゆっくり、やがて軽快にリズムを刻んでいった。それにうながされるようにして、ミカドが舞うために立った。
 レズギンカのステップを踏みはじめた。父のアフマド・ミカドからシャミール・ミカドへ伝えられた、カフカス伝統の舞踏である。

 堂々と胸をそらせ、腰のうしろに左の拳をおいた。右手はまっすぐに天を指している。きびきびと足踏みをして前進する。空を飛ぶかのように両腕をおおらかに広げた。そのままジャンプして宙を回転して舞った。
 ミカドも、めまぐるしく舞い狂うようである。オペラの〝ガイーヌ〟の一幕を思った。〝剣ノ舞〟である。いや、それと比べられるはずもない。ミカドのレズギンカにはあまたの死霊(しりょう)が憑(つ)いて、生けるものの肉に戦う力を与えようとしていたからだ。

 それから、夜はずいぶん更けた。女性たちもノルベックも家のなかに入っていった。わたしとミカドのふたりだけで、熾火(おきび)に暖をとっていた。青白い炎のオーロラが揺らいで、どこか懐かしい木炭の香が漂う。
 わたしには、聞いておかなければならないことがあった。あのモスクワでの劇場テロのことだった。ミカドはあの現場から逃れることができても、テロの責めを免れるわけではない。もちろん多数の人質を死なせた直接の責任は、ロシアの大統領にあるとしても、である。

 「君は、あのテロのことをどう思っている?」
 ミカドの亜麻色の肌は熾火(おきび)のせいで温もっている。間近に見ると、ミカドはわたしと同年配のまだ未熟さを残した顔だった。しばらく沈黙がつづいた。
 「あれは……。あんなことになるとは予想もできなかった。おれたちは人質を殺すつもりなど、はじめからなかった。それは、ロシアの交渉人にも話していたんだ。あれだけのことをやれば、ロシアはチェチェンから撤退するよりほかないと、そう思っていた……」
 「しかし、多くのロシア人が死んでしまっている」
 ミカドの声が高くなった。
 「チェチェン人はもっとたくさん死んでいる。おれの父も、甥(おい)のマゴメドも、友人たちもみんなだ。村の新しい墓を見ただろう。あれだけの数の人がわずかな間に殺されている。なにもしないではいられない」
 「だからといって、テロじゃなくても……」
 「君になにがわかる? これは戦争だぞ。ロシアは圧倒的な戦力を持っているが、チェチェンにはない。ロシアがチェチェンでやっていることは、武力にものをいわせた大規模なテロ行為だ。われわれのテロなど、戦力を持たない側からのささやかな反撃にすぎない。偏った見方をしないでほしいな」
 「いいや、ぼくは君の気持ちを理解しているつもりだよ。ここにやってきていくらかでも経験をともにした。チェチェンも、ロシアも、これより多くの命を失ってほしくない」

 ミカドは寂しそうな表情をした。
 「おれに戦うなって、そういいたいのか?」
 「日本には、剣(つるぎ)を抜かずに斬(き)る、という言葉がある」
 「……」
 すっと立ちあがると、ミカドは自分の部屋へ戻っていった。わたしはひとりになって、熾火の色が暗くなるまで見つめていた。
 翌朝、目覚めてみるとミカドは家にいなかった。陽が昇る前に起きだして、眠っていた母にお別れのキスをしてでていった。

 わたしにさよならもいわずに、君は、去っていった。
(つづく)

焚き火
YsPhoto / PIXTA

横村 出
ジャーナリスト
1962年生まれ。早稲田大学の大学院で比較政治を学んでから、朝日新聞社に入って記者として働く。ほどなくロシアのサンクトペテルブルク大学で言語文化を習う。その後、モスクワやアフリカに海外特派員として駐在しつつ、いくつかの戦争や革命、テロの現場を歩いた。2010年にフリーランスへ転身する。早稲田大学オープンカレッジでは「国際報道から読み解く世界」「戦場から読み解く世界とジャーナリズム」の2講座を開講している。江末壬(えすえ・じん)のペンネームで小説を執筆する。著書に『チェチェンの呪縛−紛争の淵源を読み解く』(岩波書店)など。

*Bee Mediaに掲載される筆者の記事は個人的見解に基づいて書かれています。© 2017-18 Izuru Yokomura