ジャーナリスティック・ノベル『剣(つるぎ)ノ舞』
第47回 〝先生の死〟

【これまでのあらすじ】 ロシア人ジャーナリストのマリアとセリョージャは、過去のテロ事件の真犯人を知る元スパイと接触した。恐るべき事件の真相をつかんだマリアは、テロの黒幕が情報機関〝FSB〟であるという証言を公表しようと心を決める。だが、それはマリアの命を危険にさらす賭けだった。一方で、チェチェンにあるFSBの監獄から脱走した主人公の若者は、彼を探しにきたノルベックとともに〝ミカド〟の母の家へふたたび舞い戻るが……。

 グロズヌイにあるFSB(フェーエスベー)の施設から脱走したわたしは、ノルベックとともにふたたびベデノ村をめざした。
 なんとかノルベックを助けることができたのは、チェチェン女性のミリアムの手引きがあったおかげだった。その恋人の運転手が機転をきかせて、グロズヌイ市内の検問所に手配書が伝達される前に、渓谷の村まで送り届けてくれた。

 さて、このノートのなかでなんどか、わたしが狂言師(きょうげんし)であることを書いた。

 日本を発つ前に、父の命(めい)によって鎌倉の白旗神社の境内で三番叟(さんばそう)を舞ったのだった。黒い顔をした老人の面(おもて)をかけて、狂言師が舞うのである。君もカフカスの舞踏(ぶとう)の名手だから、この三番叟のいわれには興味を抱くと思う。
 なぜあのとき、父がわたしに三番叟を舞わせたのか、この旅にでてからというものずっと考えつづけていた。

 能というのは、古くからの日本の芸能のひとつでその起源は神話の時代にまでさかのぼる。君たちのカフカスと同じように、宗教の儀礼と深いつながりがある。三番叟は、老人に扮した精霊である翁(おきな)の芸のひとつで、能のなかで最も神聖視されている。わたしの遠い先祖が戦乱に明け暮れていたころの、13世紀にはすでに成立していたらしい。

 君は、わたしたちの伝統的な宗教を知っているだろうか。
 古くから日本人とともにあったのが、わたしたちの自然観を表す神道(しんとう)だ。あくまで厳粛で清らかな精神性そのものを大切にする。
 インド発祥(はっしょう)の仏教のことは知っているだろう。この仏教こそが日本人に人間的な救いをもたらした。神の道と仏の教えを習合(しゅうごう)した芸能こそが、翁であり、三番叟なのだ。
 唯一神を信仰するムスリムから見れば、ずいぶん奇妙に思われるかもしれない。だが、わたしたちはごく自然に受け入れてきた。つまり、翁が表すのは国の安泰(あんたい)を言祝(ことほ)ぐ神の舞い姿であり、三番叟とは幸福を喜ぶ人間の舞いであるといえば、わかってもらえるだろうか…

 なぜ、黒い面をかけるのか。イスラムやキリスト教世界では、黒こそはサタンの表徴(ひょうちょう)であろう。三番叟の黒い面も、その身に怨念を受けて病み爛(ただ)れた顔を表している。しかし悪魔ではない。稽古をつけてくれた祖父から聞いたことがある。「もとは神であっても、虐(しいた)げられた人間に身をやつしてこそ、民の喜びのありかを探して舞うことができる」と。
 試練(しれん)を経た者のみが、苦しみのなかに救いをもたらすという信仰は、君たちのクルアーンのなかにも見いだされるはずだ。

 ベデノ村に戻ったわたしは、さっそくアマンの家へ行った。
 「あなた、生きていたのね!」
 アマンはまるでわが子を待ちわびたように、わたしを抱きしめてくれた。
 「心配をかけました。ミカドは戻りましたか?」
 わたしは、気がかりなことをまっさきに尋ねた。アミールがミカドに伝言すると約束したのを信じていた。きっとミカドが現れるような気がした。
 「いいえ、なにも音沙汰(おとさた)ないわ……」

 アマンは寂しそうだ。家の外で所在なく煙草をくゆらせているノルベックに気がついた。窓から手を振って手招きした。
 「あの人は?」
 「ぼくの友人です。ノルベックといいます。カザフにいたときに世話になって、偶然なことにグロズヌイで再会しました」

 「偶然じゃないぞ……」
 ノルベックがいった。アマンは事情がよくわからない様子である。
 「というと?」
 「おれは、君を探しにチェチェンに戻ってきたんだよ」
 「えっ、なんだって?」

 精悍(せいかん)だったノルベックの顔はやつれ気味で、ひげは黒々とずいぶん伸びている。緑色の瞳だけは、いつものように優しげだった。
 「君の先生、あのオーヤサンから連絡があったんだ。君がひとりでチェチェンへ向かったようだ、ってな。それで、君を連れ戻してくれないかと頼まれた」
 「……」
 「このおれとしたことが、カザフから尾行がついてきたのに気がつかなかった。あの茶色の革ジャンパーの男だよ。君も見ただろう。街の市場の爆発のあとで、おれたちを追ってきたやつらさ。あれがFSBだったんだ」
 「それで、グロズヌイで捕まった?」
 ノルベックは、悔しそうに頭をかいた。
 「そう、君の手がかりを探そうと思って、FSBに内通しているチェチェン組織をあたったんだ。たぶん、君はとっくに拘束されていると思ったからね。それは、図星(ずぼし)だったろう? ところが、このおれまで捕まってしまった。どうやら、おれが国際テロ組織のメンバーだと思っていたらしい。革ジャンパーの男に買収されたチクリ屋が、おれを売った。あの市場の爆破テロの犯人にでっちあげられそうになったんだ」
 「まさか、同じ監獄に入っていたとは……」

 ノルベックは目尻にしわを寄せて、ようやく人なつこい笑みを見せた。
 「そうだなぁ。チェチェンで捕まれば、あそこにぶちこまれるほかないけれど。驚いたよ。まさか、君に助けてもらうとはね」
 わたしはまんざらでもなかった。

 先生はいまどこで、どうしているか尋ねてみた。するとノルベックの緑色の瞳が一瞬で輝きを失った。
 ぼそっといった。
 「まだ知らなかったのか? オーヤサンは死んだんだよ……」
 「なんだって!」
 「オーヤサンはアフガンからイラクへ入ったんだが、そこで自動車爆弾がヒットした。即死だったそうだよ……」
 わたしの心はふたたび、暗黒の奈落(ならく)でのたうった。去年の秋に先生の話を聞いたのが最期になってしまった。そのとき、わたしに「命を落とすことになってもいいのか?」と念を押したのだった。それは、先生の覚悟そのものだったのかもしれない。
(つづく)

横村 出
1962年新潟県生まれ。早稲田大学政経学部政治学科卒、同大学院政治学研究科博士前期課程修了。朝日新聞社入社後、ロシア国立サンクトペテルブルク大学へ派遣留学、モスクワ特派員。ナイロビ支局長。チェチェン戦争(2001~2004年)、アフガニスタン戦争(2001~2002年)、パレスチナ西岸・ガザ侵攻(2002年)、イラク戦争(2003年)、ジョージア・ウクライナ革命(2003/2004年)など、旧ソ連東欧〜コーカサス地方〜中近東〜中央アジアの戦場や紛争地、テロの現場で取材。北朝鮮の核問題をめぐる6者協議では第1回〜3回までロシア代表団に同行し北京で取材した。2010年に退社し、独立する。立教大学社会学部、獨協大学外国語学部でメディア論の非常勤講師を務め、早稲田大学オープンカレッジでは「国際報道から読み解く世界」「戦場から読み解く世界とジャーナリズム」の2講座を春夏に開講している。江末壬(えすえ・じん)のペンネームでも小説を執筆する。著書に「チェチェンの呪縛〜紛争の淵源を読み解く」(岩波書店)など。

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