ジャーナリスティック・ノベル『剣(つるぎ)ノ舞』
第46回 〝陰謀の黒幕〟

 「それで、事件の黒幕は? 大統領なの?」

 サーシャは一瞬の間をおいた。
 「あの当時の大統領ではない。アパート爆破テロの一ヶ月前には、引退するつもりで後継者を指名していたんだから。そこまでやる必要がない。なにしろアルコール中毒のうえに心臓病を患っていた。第一次チェチェン戦争は和平合意で収めたけれど、そんなのは形だけだ。ロシア人ならだれも、チェチェンに敗北したことを知っていた。FSBは、強いロシアを取り戻すきっかけをつくろうとしていたのさ。戦争をやり直す口実を」
 「それで?」
 「だれが一番利益を受けるかは明白だろう? FSBを後ろ盾にして権力を握ろうとしていた人物だ」
 「つまり、いまの大統領だと……」

 マリアもセリョージャもあ然とした。モスクワでの劇場テロ事件のとき、マリアたちの人質解放交渉の裏をかいて特殊部隊に毒ガスを散布させた、あの大統領の冷徹な顔が思い浮かんだ。マリアに向かって、額に青筋をたてて「チェチェンのテロリストはトイレに追いつめて殺す」といい放ったのだった。
 サーシャはいった。
 「そうさ。おれは、知ってはいけないことを知ってしまった。いまの大統領がFSB長官だったころ、前の大統領の側近を暗殺するよう指示された。その仕事を断った者は、不審な事故でつぎつぎに命を落としている。いずれはおれにも順番がまわってくるだろうよ。黒幕についての証拠は、このバッグのなかにある書類をじっくり読んでみてくれ」
 サーシャは、ボストンバッグをマリアのほうへ押しやった。

 遊覧船は、スターリン様式の悪趣味な尖塔(せんとう)を載せたモスクワ大学の川岸をすぎ、それとまったく同じ建築の外務省とウクライナホテルの尖塔が見えるあたりまできた。その少しさきにある白亜の連邦庁舎ビルの下に、遊覧船の終点の桟橋(さんばし)があった。
 船は遊覧コースの最後の橋をくぐっていった。右岸すれすれの高台にあるイギリス大使公邸が視界に入った。剥(む)きだしの鉄骨が赤や緑に塗られた奇抜な建築だった。船のエンジンが大きな音をたてはじめた。桟橋に寄せるためにスクリューを逆回転している。

 スピーカーから、下船を知らせるもの悲しいメロディーが流れはじめた。モスクワっ子ならだれでも知っている、〝モスクワ郊外の夕べ〟という曲だった。
 歌手のアーラ・プガチョワの美しいソプラノで、

 〝わたしにとって、最愛のものとわかってくれたらいいのだけれど
 言葉が聞こえてくるようで、聞こえない
 すべてが静けさにつつまれている……〟

 と、歌っていた。マリアが聞いた。
 「あなた、これからどうするの?」
 サーシャはつぶやいた。
 「まずはグルジアへ行って、それから黒海航路でトルコへ抜ける」
 「家族は?」
 「妻と幼い娘がスペインで待っている。もうロシアには帰れない」

 夕日が川面をあかね色に焼いている。さざ波を映す横顔が陽炎(かげろう)のように寂しそうだった。
 マリアが、その歌のつづきを口ずさんだ。
 「わたしの心のうちを明かすのは難しい。いい表せない。夜明けは近づく。愛しい人よ、この夏を忘れないで……」
 サーシャにとって最愛のものとは、家族であり、この祖国ロシアなのだった。

 と、そのとき。スズメバチの羽音(はおと)のような甲高(かんだか)いエンジン音が、遊覧船のうしろから迫ってきた。3人はデッキへ飛びだした。ジェットスキーにまたがった2人組が船に横づけし、よじ登ろうとしている。目出し帽で顔を隠した巨漢だ。船が接岸するまであと数メートル。もう少しで桟橋へジャンプできる。
 だが、目出し帽の巨漢のひとりが船にあがるのが早かった。
 セリョージャは柔術(じゅうじゅつ)の使い手だった。巨漢の腕をうしろ手につかんだ。すかさず床にねじ伏せて動きを封じた。セリョージャが叫んだ。
 「逃げろ!」

 サーシャは船長から操舵輪(そうだりん)を奪い取った。めいっぱい面舵(おもかじ)にまわした。船の舳(へ)さきから桟橋にどーんと接岸した。マリアはボストンバッグを岸へ放った。それからサーシャに腕をからめて、一緒に桟橋へ飛びおりた。
 格闘していたセリョージャは、とうとう巨漢を川へ突き落とした。桟橋の上には、折り返して運航する遊覧船に乗る客たちが集まってきた。操舵室にいる船長は無線のマイクを握って、大声でどこかに連絡している。
 ジェットスキーの2人組は、水しぶきをあげてターンすると上流のほうへ逃げていった。

 「大丈夫か?」
 セリョージャが、マリアとサーシャに聞いた。
 「あなたこそ」
 「いや、おれはなんともないよ」
 3人は急ぎ足でその場から去ると、クツゾフ大通りでタクシーをひろった。
 サーシャがいった。
 「あの2人組はFSBの連中だろう。おれを監視しているやつから連絡を受けて、船を追いかけてきたんだ。船のなかで拉致(らち)すればひと目につかない。なんなら、そのまんまモスクワ川に沈めてもいいんだからな。暗殺した人間の胃袋にウォッカを流しこんで、冬の川に放りこむのはやつらの得意技なんだ」
 「酔っぱらいの転落死、というわけね」
 「そうだ。船長には金を握らせて見なかったことにさせる」
 「危なかったな。やつらが追いつくのがもう少し早かったら……」
 「ああ。おれたちはついているよ」
 サーシャにようやく笑顔が浮かんだ。

 マリアの頭は、これから書く記事のことで一杯だった。
 3年前のアパート爆破事件の真相、大統領の黒い影……。
 新聞に踊る見出しが想像できる。大きな反響を巻き起こすだろう。大統領の側近やFSBはどんなしうちをするか。暗殺リストの3番目になるかもしれないのだ。マリアは煩悶(はんもん)したが、自分が心底から納得できる落としどころはよくわかっている。
 「わたしは屈しないし、この自由を決して手放さない……」
 「なんだって? なにかいった?」
 セリョージャが聞いたが、マリアは静かにほほ笑むだけだった。
(つづく)

横村 出
1962年新潟県生まれ。早稲田大学政経学部政治学科卒、同大学院政治学研究科博士前期課程修了。朝日新聞社入社後、ロシア国立サンクトペテルブルク大学へ派遣留学、モスクワ特派員。ナイロビ支局長。チェチェン戦争(2001~2004年)、アフガニスタン戦争(2001~2002年)、パレスチナ西岸・ガザ侵攻(2002年)、イラク戦争(2003年)、ジョージア・ウクライナ革命(2003/2004年)など、旧ソ連東欧〜コーカサス地方〜中近東〜中央アジアの戦場や紛争地、テロの現場で取材。北朝鮮の核問題をめぐる6者協議では第1回〜3回までロシア代表団に同行し北京で取材した。2010年に退社し、独立する。立教大学社会学部、獨協大学外国語学部でメディア論の非常勤講師を務め、早稲田大学オープンカレッジでは「国際報道から読み解く世界」「戦場から読み解く世界とジャーナリズム」の2講座を春夏に開講している。江末壬(えすえ・じん)のペンネームでも小説を執筆する。著書に「チェチェンの呪縛〜紛争の淵源を読み解く」(岩波書店)など。

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*Bee Mediaに掲載される筆者の記事は個人的見解に基づいて書かれています。著作権はすべて筆者に帰属します。© 2017 Izuru Yokomura