ジャーナリスティック・ノベル『剣(つるぎ)ノ舞』
第45回 〝極秘任務の請負人〟

 サーシャはマリアにすべてを話して、世界へ向けて真実を告発してもらうつもりだった。これで再び故国には戻らない覚悟を固めていた。

 マリアはセリョージャを連れて、赤の広場の聖ワシリー寺院の下手を流れるモスクワ川から、観光遊覧船に乗りこもうとしていた。対岸に見えるチョコレート工場の煉瓦(れんが)の煙突から、白い煙がまっすぐに立ち昇っている。
 「寒くなったわね」
 「もうすぐ冬がくる……。あの煙突を見ると季節がわかるよ」
 マリアはコートの襟(えり)を立てた。モスクワ川が凍りはじめるころには、観光客も少なくなる。そろそろシーズンオフを迎える遊覧船はがらがらだった。サーシャは、この遊覧船をつぎの密会場所に指定していた。
 「KGB(カーゲーベー)のスタイルね」と、思わずマリアは苦笑していた。KGBは、公園や遊園地のような開けっぴろげな環境のほうが安全と考えた。古典的なスパイのランデブーの手法だった。しかも遊覧船なら、尾行さえ巻いてしまえば到着まで監視は不可能なはずだ。

 その船はモスクワの名所案内の録音テープを流しながら、クレムリン要塞の赤い壁と黄色の大宮殿を右手に見ながら出航した。冷たい季節風が吹いて、船の舳(へ)さきの三色旗がはためいている。マリアは首に軽くかけていた紫色のマフラーをしっかり巻きなおした。
 大きく蛇行(だこう)する川筋を進むと、遊覧船はゴーリキー公園に近づいた。アメリカのスペースシャトルの模造品のような巨大な宇宙船が鎮座している。船着き場でいったん停船し、親子連れが乗りこんできた。もうひとり男の人影が見えた。サーシャだった。
 黒のダウンジャケットを着て、グレーの毛糸の帽子をかぶっている。ボストンバッグを持って、黙って船に乗りこんできた。マリアとセリョージャと向かいあわせのベンチに座った。客室には3人だけだ。船長は操舵室(そうだしつ)に入ったままで、親子連れはデッキから景色を楽しんでいた。

 サーシャは警戒していた。
 「そっちの人は?」
 「彼はセリョージャ。わたしの同僚よ。信頼できる人だから大丈夫だわ」
 「そうか、よろしく」
 サーシャがセリョージャの無骨な手を握った。

 マリアの目をしっかりと見て、サーシャはなにかに背中を押されるような口調で話しはじめた。
 「おれは、君とむかし会ったことがあるんだよ。正確にいえば、君は知らなかったはずだが……」
 「どういうことかしら?」
 「あれは第1次チェチェン戦争のときだった。いまから6年前、ロシア軍が劣勢になっていた戦争の末期だ。おれは、戦場まで取材にきた君を監視する役目だった。チェチェン人を手なずけてスパイさせていた。君は、ロシア軍がやった戦争犯罪をつぎつぎに暴いていった。殲滅(せんめつ)された村に入り、虐殺(ぎゃくさつ)された人々の墓を掘り返して証拠を探し、危険もかえりみずに犠牲者の家族と行動をともにしていた。おれは、そのうちに心を動かされたんだ。おれたちは、嘘(うそ)の宣伝工作ばかりしていたからね」

 「あなたに監視されていたなんて、気がつかなかったわ」
 サーシャはまんざらでもなさそうだった。
 「グロズヌイの空港にもきたね? あのころはもうロシア軍の基地に使われていた。君は、徴兵(ちょうへい)されたばかりの若いロシア兵を取材していた。実は、やつらはチェチェン人を恐れて、ほとんど半狂乱になっていたんだ。上官がなんとかなだめて、ロシアを守る勇敢な兵士とのインタビューを仕組もうした。ところが君は、みごとな誘導尋問で厭戦(えんせん)気分を探りあてた。まさに図星(ずぼし)だった」
 「誘導尋問?」
 「ああすまない。とにかくたいしたものだった。女だてらにといっちゃ悪いが、なにしろ男の記者が怖がるような取材ばかりだったからな」

 「わたしも、あなたの経歴については調べさせてもらった。あなたは、あるとても重要な人物の暗殺を命じられて拒否した。それでしばらくレフォルトボに収監(しゅうかん)された。いまでは命を狙われているのね。あなたを信頼するわ」
 レフォルトボはソビエト時代からモスクワ郊外の白樺林にある情報機関の監獄のことだ。「森へ連れて行かれる……」という隠語の表現で市民から怖れられていた。
 サーシャは、決意を秘めたまなざしでマリアを見つめた。
 「おれはきょう、この話が終わったらすぐに亡命の旅にでる」
 マリアとセリョージャはしばらく沈黙した。
 「それがいいわ。わたしたちもできるだけの協力はする。あなたの亡命が確認できるまでは、記事は掲載しない」
 「ありがとう」

 「それで、サーシャ。あのアパート爆破テロはFSB(フェーエスベー)のしわざだっていっていたわね。ほかになにを知っているの?」
 サーシャはきっぱりいった。
 「テロの黒幕、つまりは首謀者(しゅぼうしゃ)だ」
 「少なくとも政府の発表では、カラチャイ・チェルケス出身の五人が捕まっている。チェチェン人にそそのかされてテロを起こした、とね。裁判は非公開で行われ、刑も確定した……」
 「でも、真犯人は捕まっていない。そもそも、捕まるはずがない」

 カラチャイ・チェルケスというのは、チェチェンと同じようにカフカスの紛争地であった。そのあたりの遠い祖先は、土着の先住民とペルシャやアジアからきた民族が混じりあっている。帝政ロシアによってムスリムの住民はトルコへ追放され、スターリン時代にはカザフスタンへ強制移住させられた。チェチェンの武装勢力の一派が、この地域の独立も支援していたのだった。
 「それで、真犯人はだれなの?」
 「順を追って話そう。あのテロの実行犯のひとりは、FSBのドラコフ少佐だ。そんなのは氷山の一角にすぎない。なにせ、FSBは巨大な組織だ。ロシアだけで20万人、世界に数万人の関係者がいる。極秘任務を請け負ったのは、ドラコフが所属していた対テロ局だった」
 マリアが声を潜めた。
 「請け負ったって、だれから?」
 「対テロ局の活動のほぼすべては極秘任務だ。しかも、長官直属の部局だから上の指示を仰がなくてはならない。軍配下のGRU(グル)と違って、FSBは大統領の指揮下におかれているのは知ってるだろ? すべての工作がクレムリンまであげられるわけじゃないが、長官の手もとにある案件のうち、少なくとも国家の存立にかかわるものは決済を受ける。もしも失敗すれば、国益を損ねるというより自分の首が飛ぶからさ。承認された計画は、躊躇(ちゅうちょ)なく実行される。ロシアという国家の病巣は過剰なまでの保身(ほしん)なんだよ」
(つづく)

横村 出
ジャーナリスト/作家
1962年生まれ。早稲田大学の大学院で比較政治を学んでから、朝日新聞社に入って記者として働く。ほどなくロシアのサンクトペテルブルク大学で言語文化を習う。その後、モスクワやアフリカに海外特派員として駐在しつつ、いくつかの戦争や革命、テロの現場を歩いた。2010年にフリーランスへ転身する。早稲田大学オープンカレッジでは「国際報道から読み解く世界」「戦場から読み解く世界とジャーナリズム」の2講座を開講している。江末壬(えすえ・じん)のペンネームで小説を執筆する。著書に『チェチェンの呪縛−紛争の淵源を読み解く』(岩波書店)など。

*Bee Mediaに掲載される筆者の記事は個人的見解に基づいて書かれています。© 2017-18 Izuru Yokomura