ジャーナリスティック・ノベル『剣(つるぎ)ノ舞』
第44回 〝密会〟

 店のドアに近いところに、若々しい身なりの男がいる。ウォールナット材のテーブルの角に、さりげなくハルキ・ムラカミの新刊書が置いてある。日本の鳥が表紙に描かれたデザインである。それが、符丁(ふちょう)のかわりだった。

 マリアは向かい側の椅子に腰をすべらせた。カフェの店員がベージュのコートを預かろうとしたが断った。コートの内ポケットに録音機が忍ばせてあった。店の外の石畳に置かれた木製ベンチには、セリョージャが座って新聞を読んでいる。FSBの尾行を監視する目的だったが、もしこの誘いが罠(わな)だったときにマリアを助けるためでもあった。

 サーシャは飲みかけのコーヒーカップをソーサーに置いた。
 「マリア?」
 「そうよ」
 小さなしぐさで手をさしだし握手を交わした。
 「あなた、ハルキ・ムラカミの愛読者なの?」
 「いいや。でも、モスクワで売れているんだろう?」
 「わたしは好きだけど、なぜかしらね。わたしたちがまだ子どもだったころの70年代を思いだすのよ。ブレジネフの時代で、短い間だったけれど落ち着いた清潔な空気があった…。そうよね?」
 「いまとは大違いだね」

 マリアは、サーシャに同年代の親しみを感じた。実際には、サーシャは4つ年下だった。どこかビートルズ風の茶色の巻き毛で、あくのない素直な顔をしている。明らかに上の世代とは育ってきた時代が違う風貌(ふうぼう)であった。

 「それで、あなたの情報ってなにかしら?」
 サーシャは煙草を吸わず、酒も飲まなかった。緊張を紛らわすものはいっさい口にしなかった。ちょうど昼さがりのころで、客はほとんどいない。それでもあたりをさりげなく見渡してから、おもむろに話しはじめた。
 「リャザンの未遂事件と、そのほかの爆破テロはつながっている」
 「どういうこと?」
 「あれを仕組んだのは、チェチェン人ではない」 
 「やはり…。それで?」

 「FSBのしわざだったんだ。彼らは3つの計画を立てていた。まずはチェチェンに入った西側の人間を誘拐(ゆうかい)して殺害する。つぎにロシアで人気のある有名人を暗殺する。最後に、ロシア市民を狙った大量破壊テロを起こす。そのいずれも、実行犯はFSBの特殊部隊かフリーランスの工作員だ。犯行時刻にはカフカス系の怪しげな人物を泳がせておく、ということなんだよ」
 「そのうち、3つ目の計画を実行したというわけね」
 「いいや、すべてを実行した。アパート爆破計画だけが、ボロをだしたというわけさ。外国人誘拐事件も、ロシアの政治家暗殺事件も、すべてチェチェン人が逮捕されている。裁判も片づいて一件落着というわけさ」

 マリアはうなずきながら聞いている。サーシャはつづけた。
 「モスクワのアパート爆破の直前には、GRU(グル)から政府にテロの情報が伝えられたんだが、それをFSBが握りつぶした。なにしろ自分たちの計画なんだから。作戦の暗号名はマンハッタン。リャザンのしくじりがなければ、あと2、3件つづけて爆破することになっていたんだ」
 「すべてチェチェン人のテロに仕立てて、戦争の口実にしたのね」
 「ご明察(めいさつ)のとおりだ」
 GRUというのは、ロシア軍の参謀本部情報局のことだ。ゲーエルウー、あるいは西側ではグルーと呼ばれ、FSBと双璧(そうへき)をなす諜報(ちょうほう)組織であった。

 「そのチェチェン系の怪しい人物を泳がせたのは、いったいだれなの?」
 「ジャブライロフ兄弟だよ」
 「そういうことね……」
 「ジャブライロフはFSBの委託を受けて、刑務所をでたばかりのカフカス系の男たちを金で集めた。理由を告げないで、テロが計画されている日時に現場の近くにいるように命じたんだよ。なにも知らない警察は、そいつらを逮捕したというわけさ。このロシアじゃ人権なんてないから、チェチェン人がなにを主張しようがすべては闇に葬られた」

 「すべてが、でっちあげというわけね」
 「そのとおり」
 「リャザンの事件では、たまたま実行犯が捕まってしまった。あのときの3人組はFSBの職員なの?」
 「あれは、フリーの工作員さ。この国には、FSBと契約するフリーのテロリストは数千人はいるよ。あのときはさすがのFSBもあわてたね。すぐにリャザンに職員を送りこんで、現場を握りつぶそうとした。爆薬や起爆装置やら証拠品はすべてモスクワへ持ち帰ったんだ。そのうえで、現地の警察署長には固く口どめをした。もしも話したら殺す、とね」
 「……」

 そのとき、カフェの窓ガラスを叩く音がした。店の外にいるセリョージャだった。ガラス越しに〝ジェッツキー〟(子ども=スパイの隠語)と書いた紙を見せた。裏口から逃げるように指さしている。マリアか、それともサーシャか、どちらかの尾行がこのカフェに気づいたのだ。

 サーシャはさっと席を立った。マリアも小銭をテーブルに置くとすぐに立ちあがった。去りぎわにマリアが尋ねた。
 「あなたの職業を聞いてなかったわね?」
 「おれは、FSBの中佐だった」
 そう告げると、連絡方法を記した紙をマリアに握らせた。(つづく)

横村 出
1962年新潟県生まれ。早稲田大学政経学部政治学科卒、同大学院政治学研究科博士前期課程修了。朝日新聞社入社後、ロシア国立サンクトペテルブルク大学へ派遣留学、モスクワ特派員。ナイロビ支局長。チェチェン戦争(2001~2004年)、アフガニスタン戦争(2001~2002年)、パレスチナ西岸・ガザ侵攻(2002年)、イラク戦争(2003年)、ジョージア・ウクライナ革命(2003/2004年)など、旧ソ連東欧〜コーカサス地方〜中近東〜中央アジアの戦場や紛争地、テロの現場で取材。北朝鮮の核問題をめぐる6者協議では第1回〜3回までロシア代表団に同行し北京で取材した。2010年に退社し、独立する。立教大学社会学部、獨協大学外国語学部でメディア論の非常勤講師を務め、早稲田大学オープンカレッジでは「国際報道から読み解く世界」「戦場から読み解く世界とジャーナリズム」の2講座を春夏に開講している。江末壬(えすえ・じん)のペンネームでも小説を執筆する。著書に「チェチェンの呪縛〜紛争の淵源を読み解く」(岩波書店)など。

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*Bee Mediaに掲載される筆者の記事は個人的見解に基づいて書かれています。著作権はすべて筆者に帰属します。© 2017 Izuru Yokomura