ジャーナリスティック・ノベル『剣(つるぎ)ノ舞』
第43回 〝謎の鍵をにぎる男〟

 このときロシアの各地で起きたアパート爆破は、チェチェン武装勢力によるテロと断定され、2度目のチェチェン戦争開始の口実にされた。報道メディアは色めき立った。なにしろ、リャザンでとうとうチェチェン武装勢力の尻尾をつかみかけた、はずだったから……。

 マリアは、ボールペンでこつこつ机を叩いている。
 「セリョージャ。あなた、あのときのテロ未遂の第一発見者に取材したときのこと覚えているかしら?」
 「ああ、よく覚えているよ」
 「老夫婦は、はっきり証言したわね。怪しい3人組は男2人と女1人で、全員がロシア人の顔をして、きれいなロシア語を話したって。チェチェン人ではないと断言した」
 「そのとおりだ」

 「わたしたちが極秘で入手したこのリャザン警察の記録にも、逮捕した容疑者はチェチェン人ではないと書いてあって、証言と一致する」
 「おかしなことは、その後もつづいた。事件から数日して、FSB長官がじきじきに記者会見して、『あれは爆弾テロの訓練だった。仕掛けられたのは偽物で、白い粉は砂糖だ』っていったんだよな。笑ったよ。あのときの怪しい3人組がFSBの人間だと認めたようなものだからさ」
 セリョージャは皮肉な笑いを浮かべた。マリアは首を小さく振って、あきれたようなしぐさを見せている。

 「そうね。あれには地元の警察もさすがに頭にきた。警察が探知機を使って軍用爆薬のRDX反応を確認したと、猛然と抗議したわね」
 「結局のところ、事件はうやむやになってしまった。世論はアパート爆破テロへの怒りで沸騰(ふっとう)していたし、すぐにはじまったチェチェンへの報復空爆の戦果に熱狂していたから。テロ未遂事件なんて、どうでもよかったんだ」

 「でも、この事件には、チェチェン戦争の謎を解く鍵(かぎ)があるの」
 セリョージャもまったく同感だった。マリアの顔を見てうなずいた。
 「それで、君は謎を解く重要な手がかりを?」
 「そうよ。いままではあらゆる証拠が抹殺(まっさつ)されたけど、ようやく事件の核心を証言する人物が現れたのよ」
 「なんだって……」

 その人物が、マリアに接触してきたのは、ちょうどわたしがジャブライロフの手引きでチェチェンに入境したころだった。ロンドンに暮らすあるロシア人から、「テロの内幕を知る情報源がいる。君と話したがっているのだが、会ってはもらえないか」という連絡があったのだ。

 モスクワの劇場テロ事件からマリア自身がFSBにマークされていて、不審人物からの接触には警戒していた。このロシア人は前政権の要人だったが、大統領と対立して国外に逃れていた。灰色の枢機卿(すうききょう)というニックネームで呼ばれ、ロシア政界の裏事情に通じている。FSBの暗殺リストの筆頭に記載されるほどの人だったから、マリアはこの申し出を受けることにしたのだった。

 そのロシア人が仲介する情報源は、FSBから執拗(しつよう)に追われイギリスへ逃亡していた。マリアに会うために危険を冒してまで、バルト海のリトアニア経由の鉄道で密かにモスクワに戻ってきた。
 密会場所に、FSB(フェーエスベー)本部ビルからわずかにブロックひとつ離れたカフェを指定してきた。うす気味悪い黄土色のFSBビルの脇からクズネツキーモスト通りを歩くと、車両通行止めの狭い石畳の坂道にでる。ボリショイ劇場や有名デパートにも近い繁華街だが、このあたりだけは、帝政時代の旧市街の面影(おもかげ)をとどめる目立たない一角であった。

 その情報源の名前は、サーシャ。このノートを書いているいまは、彼はまだ存命だ。だが、ロシアの暗殺リストの2番目に挙げられているからいずれ命の危険が迫るだろう。
 ちょうど雨あがりの午後だったので、数百年の歴史に磨かれた石畳は黒く艶(つや)めいてよく滑った。マリアは黒革のブーツのヒールに気をつけながら、ひとりでゆっくりと坂道をのぼっていった。
 そこは〝カフェコスタ〟という名の外資チェーンで、どこにでもありそうな店である。ただ、帝政時代の3階建てのビルを改装した内部は重厚な石組みで造られている。だから、盗聴器や隠しカメラをしこむのは、新しいビルに比べれば難しかった。(つづく)

横村 出
ジャーナリスト/作家
1962年生まれ。早稲田大学の大学院で比較政治を学んでから、朝日新聞社に入って記者として働く。ほどなくロシアのサンクトペテルブルク大学で言語文化を習う。その後、モスクワやアフリカに海外特派員として駐在しつつ、いくつかの戦争や革命、テロの現場を歩いた。2010年にフリーランスへ転身する。早稲田大学オープンカレッジでは「国際報道から読み解く世界」「戦場から読み解く世界とジャーナリズム」の2講座を開講している。江末壬(えすえ・じん)のペンネームで小説を執筆する。著書に『チェチェンの呪縛−紛争の淵源を読み解く』(岩波書店)など。

*Bee Mediaに掲載される筆者の記事は個人的見解に基づいて書かれています。© 2017-18 Izuru Yokomura