ジャーナリスティック・ノベル『剣(つるぎ)ノ舞』
第40回 〝異常な祖国愛〟

【これまでのあらすじ】〝ミカド〟を追ってチェチェンの山村まできた主人公は、とうとう家族に会うことができた。だが、ロシア軍の攻撃で家族の幼な子が殺されてしまう。村に現れたゲリラの首領は〝復讐〟を口にした。そんなとき、主人公はロシアの手先に誘拐されてしまう……

 シャバルキンがわたしに持ちかけたのは、「将来に渡ってロシア政府の良きパートナーになる」という条件だった。つまり、スパイである。
 FSBにとっては、ジャブライロフの闇商売の摘発(てきはつ)などよりも、日本の名門家の御曹司(おんぞうし)の尻尾をつかんでおくほうが、よほど価値があると判断したのだった。

 「そのためには、あなたの思想調査が必要です」
 「といいますと?」
 「あなたがロシア政府にとって敵対的な人物ではない、という確証がいるということです。まず、伺(うかが)いましょう。大統領についてどう思いますか?」
 「とくになんとも思いませんが……」
 「それはいい。西側の偏った考え方に洗脳されてはいけません。つぎの質問ですが、ロシアは平和的な友好国であると思いますか?」
 「昨夜も話したように、祖父はソビエト時代に過酷な経験をさせられましたが怨(うら)むことはありませんでした。むしろ、米ソ冷戦のころには、日本との関係が悪くならないよう願っていたほどです。ぼくも祖父と同じです」
 「それもいい。あなたはじつに賢いですね」

 「ただ……。ロシアがなぜここを、つまりチェチェンを、これほどまで執拗(しつよう)に痛めつけるのかがわかりません」
 これを聞いて、シャバルキンの顔つきが一変した。
 「それは、まずいですねえ。じつにまずいが、いいでしょう。わたしがこの場であなたの間違った考え方を直してさしあげましょう。いいえ、OMON(オモン)のように拷問(ごうもん)などしませんから、安心してください」
 ひっひと、引きつった笑いを浮かべている。

 それから数日に渡って、わたしはシャバルキンからロシア現代史の講義を聴かされることになった。
 シャバルキンは、こういった。
 「ロシアがチェチェンを制圧するのは国益のためです。国益こそ、人権に優先する最も崇高(すうこう)な理念なのです。アメリカだって同じでしょう。いまアフガニスタンで戦い、イラクを締めあげているのも国益のためなればこそです。国家あっての国民であることを、忘れてはいけませんよ。テロとの戦いなどというのは、大義名分にすぎません」
 「ですが、国益だけを追い求めたら、いずれは大国が共喰いすることになりませんか?」
 「これはおもしろい! いい質問ですねぇ」

 シャバルキンは鼻の穴を膨(ふく)らませて、得意満面になった。
 「アメリカはすでに、ロシアの国益を喰らおうとしているのですよ。ロシアのかわいい弟のようなグルジア、美しい長女のウクライナ。ここにカウボーイの野蛮で汚れた手が触れようとしている。これはぜったいに許せない」
 「冷戦時代には、ソビエトも同じことをしましたね?」
 「そうです。あのキューバ危機のときに、アメリカに核兵器を撃ちこんでおけばよかったのですよ。臆病者のフルシチョフさえ粛正(しゅくせい)しておけば……。ああ、歴史にもしもはありませんからね。じつに残念なことです」
 「もしこれから同じことが起きたら、あなたがたは核を使うと?」
 「大統領がおっしゃるように、こんどは躊躇(ちゅうちょ)なく決断します」
 「……」
 「ですから、日本にもあなたのような協力者が要るのですよ」

 シャバルキンの異常な祖国愛には、辟易(へきえき)させられた。おそらくはこうした発想によって、祖父たち抑留者もソビエトの国益に奉仕させられたのだ。だが、祖父はなぜロシア人を怨まなかったのだろうか。それは、祖父たちの世代も、アジア全体に日本への偏愛(へんあい)を押しつけたことへの羞恥(しゅうち)からであろう、と思えた。

 わたしには、ノルベックのことがずっと気がかりだった。いや、まだノルベックであると決まったわけではないが、向かいの独房に監禁されている人物を急いで確かめなければならなかった。
 茶色の革ジャンパーの男は、毎朝決まった時間にきては目隠しされた人物を独房から引きだし、夜遅くなってまた独房へ連れ戻していた。わたしの房には鍵はかけられなかったが、廊下には守衛がいる。しかも、向かいの独房には格子窓がないので、だれがいるのか知りようがなかった。

 ある日、チェチェンの女性のミリアムが重要な手がかりをもたらした。ミリアムは1週おきに囚人服を回収する仕事をしている。新しい服と交換して、汚れた服は街の洗濯業者に運ばせていた。なんどか、向かいの独房の人物を見たといった。
 30代ぐらいの男で、鋭い輪郭(りんかく)の怖い顔だが、目もとはどこか優しい、と。そして、瞳はうすい緑色だという。わたしは、もはや直感的に確信した。

 わたしの処遇はシャバルキンによって粛々と決められていった。いつものように執務室に呼びだされると、シャバルキンはじつに快活で愉快そうだった。
 「きょうは、とてもよい提案があります。この数日かけて日本政府と交渉をしたのですがね……。昨夜になって、アゼルバイジャンの日本大使館から返答が届きました。あなたの身柄を引き取りたい、とね」
 覚悟はしていたが、ことは大きくなっていた。シャバルキンがいったのは提案などではなく、わたしへの命令であった。逆らうことはできなかった。
 「それは、いつですか?」
 「明日の朝にはここから解放します。護送車に乗ってもらい、ダゲスタンとアゼルバイジャンとの国境で、日本の外交官にお渡しする段取りです。それに異存(いぞん)ありませんね?」
 「はい」

 「それはよかった。心配は無用ですよ。あなたをチェチェンで拘束したことは不問に付してほしいというのが、日本側の要望です。こんなところで日本人が捕まったとあっては、メディアが騒ぎ立てるでしょうし、両国関係にひびが入りますからねぇ。おたくの首相もロシアの人権問題に厳しいコメントをしなければいけなくなる。それでは、間近に迫った領土交渉に影響しようというものです。つまり、あなたはここにはいなかったということで、すべてが丸く収まる……。そんな、すばらしい表現がありましたね、日本語には?」
 「おっしゃるとおりにしていただいて結構です……」
 わたしは、ノルベックをすぐにも助けださねばならないと思った。(つづく)

横村 出
ジャーナリスト/作家
1962年生まれ。早稲田大学の大学院で比較政治を学んでから、朝日新聞社に入って記者として働く。ほどなくロシアのサンクトペテルブルク大学で言語文化を習う。その後、モスクワやアフリカに海外特派員として駐在しつつ、いくつかの戦争や革命、テロの現場を歩いた。2010年にフリーランスへ転身する。早稲田大学オープンカレッジでは「国際報道から読み解く世界」「戦場から読み解く世界とジャーナリズム」の2講座を開講している。江末壬(えすえ・じん)のペンネームで小説を執筆する。著書に『チェチェンの呪縛−紛争の淵源を読み解く』(岩波書店)など。

*Bee Mediaに掲載される筆者の記事は個人的見解に基づいて書かれています。© 2017-18 Izuru Yokomura