ジャーナリスティック・ノベル『剣(つるぎ)ノ舞』
第39回 〝駆け引き〟

 わたしは考えた。すべてを隠し通すことは無理だと思った。だれを守って、だれを犠牲にするか、いますぐにも判断しなければならない。
 守るべき人たちは、ミカドとその一族、それからマリアたち協力者だった。とすると、わたしをここへ送りこんだジャブライロフには悪いが、話さざるを得なかった。

 「ここまできてしまったのは、旅の最中にある人と出会ったからです」
 「それは、だれですか?」
 「モスクワのジャブライロフという人物です」
 ははあん、という表情を浮かべている。どうやら、ジャブライロフはここでも有名人のようだった。事情を察した様子だった。
 「なにかを運ぶように頼まれましたか。それとも、チェチェンから運びだすように指示されたとか?」
 「いいえ……」

 「それは、あとでじっくり聞くことにしましょう。今晩は食事にご招待したのですから、楽しい会話にしましょう。それから?」
 「ぼくがロシアに関心を持ったのは、祖父の影響です。祖父はわたしの狂言の師匠です。家元を継ぐまでに、9年間も抑留されたのです」
 「これは奇遇(きぐう)ですなあ。わたしが日本に関わるようになったきっかけは、抑留者の通訳をしたからなんですよ」

 シャバルキンは思い出を長々と話してくれた。第2次世界大戦の末期、モスクワ大学のアジア・アフリカ科で日本語を学んでいた彼は、徴用(ちょうよう)されてサハリンへ送られた。そこでの任務は、日本兵の捕虜(ほりょ)の軍事裁判の通訳をすることだった。
 やがて終戦を迎えてからは抑留者の収容所で働いていた。中国語や中央アジアの言語にも堪能(たんのう)だったから、そのままKGBのスパイになった。ソビエト連邦の崩壊でいったん退職したのだが、人材不足のあおりで請われてこうして遠方まできていた。

 「日本人はじつに勤勉でしたなぁ。いっそうのことあなたの国もわれわれの一部になっていれば、ソビエト連邦が崩壊することもなかったでしょうな」
 遠いむかしを懐かしむ口調であった。
 「祖父は現地の人との交流を話してくれました」
 「そうですか。それでロシアにご興味を。あなたの一族は名門だけあって見あげたものですな。普通であれば、ロシアを憎むでしょうに」
 「いいえ。祖父はロシアを怨(うら)むようなことはありませんでした」
 シャバルキンはなにごとか腹に決めたように、深くうなずいていた。

◇◇

 その夜は、天窓から月あかりが煌々(こうこう)と照って眠られなかった。

 午後10時をまわったころだったろうか、靴音が鳴り響いてふたり連れが独房の並ぶ廊下を歩いてきた。わたしは鉄格子の小窓からのぞいてみた。さきを歩く人物は目隠しをされ、手錠をかけられている。うしろから歩く男の顔を見て、驚愕(きょうがく)した。

 それは、茶色の革ジャンパーの男。カザフスタンの街でわたしを執拗(しつよう)に尾行していた、あの小柄な男だった。
 それがなぜ、このチェチェンにいるのだろうと考えこんだ。その男がFSB(フェーエスベー)であることは疑いなかった。カザフスタンからチェチェンまで、いったいだれを追ってきたのであろう…

 はっとして、気がついた。ノルベック・ヤマニエフ。無愛想だが優しいその人の顔が浮かんだ。わたしの斜め向かいの独房に目隠しされた人物が入れられ、革ジャンパーの男が鍵をかけて去っていった。

 翌朝、早い時間にシャバルキンの執務室に呼びだされた。昨晩とはうって変わっていかにも元スパイらしい厳格な態度だった。
 「さて、きょうのあなたはゲストというわけにはいきません。あなたには少なくともふたつの罪状があります。ひとつはチェチェンへの無届け越境。もうひとつが、偽造パスポートの所持です。ジャブライロフからなにごとか依頼されたようですが、これまでのところ、あなたが違法取引に関係したという証拠はない。もっとも、ふたつの罪状だけで十分に起訴できます。そうなればここの簡易軍事法廷で、禁固(きんこ)3年の判決といったところでしょうね」
 「……」
「ただし、あなたとは取引ができないわけではない。わが国には司法取引があるのはご存じでしょう。われわれの捜査に有利な情報を提供するか、将来の協力関係を誓うことで、無罪放免ということもあるのです。どうですか?」

 「有利な情報など、なにもないと思いますが…」
 「まあまあ。わたしたちにしても、日本人をここで3年間も閉じこめておくつもりはありませんよ。いまは抑留などできない時代ですからね。このことがメディアにもれれば、あっというまに話題になるでしょう。なにしろあなたは日本人だから、やれ人権弾圧だのとうるさいことになる。それに、あなたのような名門一族にとっても、悪い評判を招くでしょうね」
 笑みを浮かべてはいるが、鋭利な刃物のように冷たい口ぶりだった。(つづく)

横村 出
ジャーナリスト
1962年生まれ。早稲田大学の大学院で比較政治を学んでから、朝日新聞社に入って記者として働く。ほどなくロシアのサンクトペテルブルク大学で言語文化を習う。その後、モスクワやアフリカに海外特派員として駐在しつつ、いくつかの戦争や革命、テロの現場を歩いた。2010年にフリーランスへ転身する。早稲田大学オープンカレッジでは「国際報道から読み解く世界」「戦場から読み解く世界とジャーナリズム」の2講座を開講している。江末壬(えすえ・じん)のペンネームで小説を執筆する。著書に『チェチェンの呪縛−紛争の淵源を読み解く』(岩波書店)など。

*Bee Mediaに掲載される筆者の記事は個人的見解に基づいて書かれています。© 2017-18 Izuru Yokomura